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麝香

両の手で鷲掴み、力ずくで押さえ付けられているかのように、頭が痛む。 額には脂汗が滲み、こめかみには血管が浮き出て、思考は白波に呑まれ、狼狽える鼓動が忙しなく脈打つ。 足下を見つめれば、名も無き雑草と、蹴散らされるだけの小石が映り込み、空地へと無数に広がっている。 ずっと、自らは動けもしないままに根差し、ただ羨むように天を見上げている草や石ころに、何とも言えない感情が湧いてくる。 ジャリ、と土を踏み締めてそれらを潰せば、後方から上擦った声が聞こえ、莉々香と認識するのに時間はかからなかった。 やめて、触らないで、と続けざまに聞こえ、強張って動けなくなるも鼓膜だけは敏感に車内でのやり取りを拾い上げ、対する自分は何も出来ずに立ち尽くす。 「あ~、スッキリした」 前方では、まるで何事もなかったかのように、女が艶やかな黒髪を靡かせ、気持ち良さそうに夜風を受けながら背伸びしている。 その手で何をしたかだなんて、この者は微塵も考えてはいないのだろう。 晴れ晴れとした様相で、傍らにて佇んでいた青年へと話し掛け、忌まわしき封筒をぞんざいに投げ渡す。 罪の意識なんて欠片もない微笑みを、まざまざと見せ付けられながら沸々と沸き上がる怒りは、一体何に対する激情なのであろう。 「気掛かりなゴミが一つ片付いた。これでようやく、安心して眠れるよ。いい仕事してくれて助かっちゃったなあ。また次があったらお願いしようかな」 憂いを帯びた眼差しをさ迷わせ、黒髪へと指を絡ませながら艶然に、甘やかな声を発する。 小夜風に撫でられ、心地好さそうに佇み、上機嫌に鮮やかな唇を開いている。 「あ~あ、何か疲れちゃった。用も済んだし、そろそろ帰ろっか。車何処停めてる?」 「自分とってきます」 「うん、お願い」 なんで……、どうしてだ……? 俯く頭上に広がる空は、心情を表しているかのよう。 対して項垂れる地上では、忌々しい声がしたかと思えば足音が続き、事を終えた彼等が悠々と立ち去ろうとしている。 「何で……」 無意識に、拳を握り締めながら紡がれた声は、やり場のない怒りに打ち震える。 なんで、どうしてそんな事が言える? 平然と笑っていられる? 何も喋るな、という言い付けを破り、傍観者であることをかなぐり捨て、眼前にて嘲笑う悪魔に怒りが込み上げていく。 「何? 何か言った?」 感情を押し殺しながらも、耐えられず絞り出された声に、件の人物が気付いて辺りを見回している。 仲間からではないと分かり、そうしてすぐにも一点へと行き着いて、僅かな静寂と共に視線が突き刺さる。 「キミ? まだ何か用? あるなら手短にしてくれる?」 剣呑とした雰囲気に、徐々に顔を上げれば視線が交わり、彼女は腰に手を当ててふんぞり返っている。 思わず殴り掛かりそうな鬱憤を堪え、眉根を寄せながら黙々と睨み付ければ、あからさまに不愉快そうに対象者が声を尖らせる。 「何その目……、やな感じ」 「何でこんな事が出来るんだ」 「ハァ? 何言ってんの?」 感付いてはいたけれど、やはり真っ向から話なんて通じず、黒衣の者といえば不躾に鼻で笑っている。 そうして傍らへと、何で僕達が責められてるんだろう、などと口走り、首を傾げる青年に微笑んでいる。 邪魔者は排除し、悉く踏みつけて、何でも思い通りにしてきたのだろう。 裁きを受けず、不遜な態度を崩さぬ輩に憤然とするも、二の句を告げようとした身へと言の葉の刃が突き刺さる。 「どうせあの女で、これから一儲けするんでしょ? あんなはした金よりよっぽど高値でさァ」 「それは……」 「どういうつもりか知らないけど、キミはさァ……何? 自分だけはいい子だとでも言いたいの? 安っぽい正義感振りかざして、それで何かが変えられる? 本当はそんな気もないくせに。だからお前はそこにいるんだろ? 口にすればする程見苦しいからさァ、いい加減もう黙れば? 超うざい」 冷ややかな双眸で、真っ向から血塗られた刃に貫かれ、容赦のない悪意に晒されて言葉に詰まる。 何かが変えられる? そんな気もないくせに。 乱雑に絡まる思考へと、放たれた言葉が刻み付いて離れず、後ずさりそうになる足が重くて動かない。 自分だけはいい子、安っぽい正義感、だからそこにいる、何も変えられないまま俺はここにいる、それなのに一丁前に人を裁こうとしている。 「ま、キミの事なんて全然知らないけど。興味もないし」 何か聞こえた気がしたけれど、風に奪われる。 鈍器で殴られたかのように、目眩がして、頭が痛くて立っていられなくて、向かうべき場所が分からない。 「俺は……ただ……」 ただ、何だ……? 何が出来ると思った? 掴めると思った? 苛むように疑問符ばかりが渦巻いて、ただただ無力で意気地がない己を見せ付けられて潰え、急速に気持ちが沈んでいく。 「何してる。さっさと乗れ」 そこへ、不意に背後から声を掛けられ、驚いて心臓が跳ね上がる。 振り返れば、後部座席から二井谷が顔を覗かせており、緊張感に包まれる。 我に返って、瞬時に行いを省みて、何か言われるだろうかと視線を下ろす。 暫し見つめてから、二井谷は地上へと降り、言葉は無くともさっさと乗れと言っているのが分かる。 威圧感に耐えかね、おずおずと歩を進めて後部座席へと乗り込めば、すぐさま閉ざされて静けさが漂う。 外界と隔絶され、目の前には相変わらず囚われの男が横たわり、視線を巡らせれば最後尾に俯く莉々香を見つける。 突っ立っていると、助手席へと二井谷が乗り込み、盛大な溜め息が聞こえてくる。 「あ~、終わったァ~。終わってねえけど~、あの女狐やべえな。ありゃ粘着するタイプだわ。て、お前なに突っ立ってんの? その女、見張ってて」 捲し立ててから、ふと立ち尽くしていることに気が付いて振り返り、二井谷が声を掛けてくる。 再び後方へと顔を向ければ、莉々香は窓から外を眺めており、二井谷の声に反応することもなく大人しくしている。 きっと不安で、恐れているに違いない。 躊躇い、迷いながらも彼女へと近付けば、僅かに肩を震わせて逃れようと身を寄せ、顔を背けながら窓際へとくっついている。

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