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麝香

由布は、いつの間にか闇へと溶け込み、きっと屋内にて二井谷を待っている。 だが、建物からは一向に明かりが漏れず、人が居るようにはとても思えない。 そもそも、暗がりでよくは見えないけれど、打ち捨てられて久しい廃屋だ。 このような山奥で、出入りがあるとは到底思えぬ廃墟であり、気に掛ける者など誰もいないであろう。 「だからこそ……、か」 夜空からの導きもない、一筋の光にすら見捨てられた地上を、二井谷が惑うことなく歩いている。 次第に暗く、黒く塗り潰されていく後ろ姿が、視界からかの存在を奪っていく。 誰も気に留めない、気付かないからこそ、彼等は此処を選んでいるのだ。 闇なんて恐れない、彼等はそのものであるから。 ずる、と引き摺られていく音が、少しずつ遠退く。 縫い付けられたかのように足が動かず、心臓はどくどくと忙しなく脈打っている。 冷え冷えとした風が、時おり鬱蒼とした木々をざわつかせ、何か得体の知れない恐ろしいものが唸っているかのような恐怖心を植え付けられる。 「來」 呼ばれて振り返れば、莉々香が顔を覗かせている。 それだけで現実へと引き戻され、安堵してしまう。 一人じゃない。 俺は今、一人じゃない。 自然と過る想いに、何故だか涙が出そうになった。 「アイツは……? 行った?」 周囲を警戒し、声を潜めながら莉々香に問われ、建物の方を眺める。 「ああ……」 「何……、する気なんだろう」 「考えたくもない……」 「あの人、どうなっちゃうの? ていうか、何なのよアレ」 「俺にも……、よく分からない」 「分からないって……」 間近で困惑する莉々香に、眉根を寄せて考える。 そうしてふと、過去の一幕が脳裏を過り、具合を悪くしたことを思い出す。 あの時は仲間を、よってたかって暴行していて、見ていられなくて俺は、逃げて、そうしたら薊さんが心配してくれて……。 状況は異なるけれど、行われる事に相違はない。 今回は、それを望む依頼者がいるというのだから闇が深い。 「とにかく、今がチャンス。今しかない」 「でも……」 「大人しく待ってるつもり? いいなりになってたら最終的にアンタも消されるわよ!?」 「それは……、でも」 「もう! はっきりしろ! 行くよ!」 「あっ……」 歯切れが悪く、優柔不断に突っ立っていると莉々香が痺れを切らし、力強く腕を掴んで引っ張ってくる。 思わず情けない声を漏らし、酷く頼りない顔で後を追い、じわじわと焦燥感に蝕まれていく。 確かに考えた、考えてはいた、彼女だけでも魔の手から救ってやりたいと、道中ずっと思っていたのだ。 だが、あまりにも出来過ぎてはいないか。 こんなにも簡単に逃れられるのか? 「暗くてよく見えないな……。そうだ、携帯。て、ねえわ………。來、スマホでライト点けて」 「え、ああ……」 すっかり気圧され、ハッと我に返ってから衣服を探り、携帯電話を取り出して歩きながら操作する。 然して間もなく、か細くも確かな光が足下を照らし、少しは見やすくなる。 一歩、また一歩と車から離れていき、道路に出ても辺りには静けさが漂う。 耳を澄まし、ふと振り返れば追っ手は居らず、一抹の不安に駆られていく。 莉々香の言葉を借りれば今がチャンスであり、彼女の判断は正しい。 けれど現場から離れれば離れる程、死神の鎌が喉元へと食い込むようで、晴れやかな気分からは程遠い。 信頼されているから彼女を任されたのか、判断するつもりで莉々香を託されたのか、どれだけ頭を悩ませても合点がいかない。 莉々香は助けたい、でも此処を離れればもう戻れない、薊と居られない。 そんな人じゃない、話せばきっと分かってくれる、なんて絵空事を散りばめても何の役にも立たず、心はずっと落ち着けないでいた。 「あ、ていうか車奪えば良かったか」 「楽だけど、リスクが高ェよ。すぐバレる」 「ま、それもそうか……。にしても何処よ、ここ~! そうだ、110番!」 「圏外……」 「嘘でしょ……、今どきそんなとこ存在する? あ~、クソ。ついてないなあ……」 「……これからどうすんの?」 「分かんない。つうか、とりあえず歩くしかなくない? は~、やっばいわ。もう足痛いからおんぶして」 「え、いや……無理じゃね?」 「ハァなに? 重い? 重いっつった?」 「ちょ、言ってねえ、言ってねえって何も、痛ェよ!」 莉々香は、ころころと表情が変わり、今では拗ねたように腕を叩いてくる。 とても逃亡中とは思えず、油断しすぎではないかと心配になるも、彼女の明るさに救われてもいる。 「いつバレるかも分かんねえし……、追い掛けてくる事を考えると、此処にいるのはよくねえと思う」 「確かに……、超目立つよね。道路にぽつーんて」 「アンタ……、危機感ねえなあ」 「アンタには言われたくないっていうか。莉々香だっつってんでしょ?」 「いたっ、いちいち叩くなよ……。ったく、此処を歩くのはやめて、そっち行こうぜ」 立ち止まって指し示せば、莉々香が顔を向ける。 「……マジ? いや分かるけど……、マジ?」 「マジ」 「この、うすっきみわるい森を? 山ン中を? 嘘でしょ~!?」 「俺だってやだよ。でも……、そこしかねえって」 頭では分かっていても、生い茂る木々からは不気味な空気が漂い、身を投じるにはあまりに抵抗がある。 けれど、舗装された道を歩んでいるだけではいずれ見つかり、恐らく逃げ切れない。 それならば少しでも、陰へ陰へと身を隠して山を下り、安心出来る場所まで彼女を連れ出さなければならない。 そうして莉々香の無事を確保したならば、後はもう、野となれ山となれだ。 「あ、あそこから降りられそうだな」 「うわ……、降りられるんかい……。ちょっと、熊とか出たら守ってよ!?」 「アンタなら何が出ても大丈夫そうじゃねえ?」 「何それ、ちょっと! どういう意味!?」 「素手で張り倒せそう、いってえ!」 「マジ信じられない! このぽんこつ! 下っぱ!」 「だからすぐ殴ってくんのやめろっつうの! このガサツ女!」

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