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麝香

流れに沿って、足元に気を付けながら歩いていく。 傍らでは、途切れることなくせせらぎが聞こえ、宵闇に紛れた川は何処まで繋がっているのだろうか。 ふと空を見上げれば、時おり雲の切れ間から光が射し込み、行く先を照らされて頼もしい道標となる。 都合のいい考えだが、天が味方してくれていると思えば、漠然と救われたような気にもなるから不思議だ。 「ねえ、ちょっと速いって。足場悪いんだから」 「え、ああ、わりぃ」 物思いに耽っていると、急に裾を引っ張られる。 ゆっくりと歩いているつもりであったが、元々の歩幅も異なる為、いつしか莉々香を置いて突き進んでしまっていたらしい。 「來って……、モテないでしょ」 「ハァ!? な、なんだよいきなり……」 「モテる男ならちゃんとエスコートしてくれるもんでしょ? 例えば漸とか? アレは抜け目ないわ」 「こんなところでエスコートもクソもねえだろ。つうか……、実は未練たらたらじゃねえかよ。惜しいことしたとか思ってんだろ」 「ハァ? 別にそんなんじゃないし、ただの例え話でしょ?」 多少は反省して、今度は彼女を気に掛けて歩く。 紡がれた名前がまたしても纏わりつき、一体どんな男なのだろうかと思う。 ほんの少し会話をしただけでも命の危機へと晒されるような、彼はまるで人を狂わせる魔物だ。 関わりさえしなければ、見られてさえいなければ今回の事は避けられただろうと思うと、運が悪かったとしか言えない。 「來は……、どうしてあんな奴らと一緒にいるの? もしかしていつもあんな事してるの?」 「違う! こんな事になるなんて……、思わなくて……。わけわかんねえまま、あの人たちと一緒に行動させられてて……、本意じゃないんだ。信じてもらえないかもしれないけど」 力一杯に否定するも、徐々に威勢を失っていく。 本意じゃない、望んでいない、信じてほしい。 心中で矢継ぎ早に発するも、自分の意思で彼らと行動を共にしていたというのに、虫のいい話である。 自分だけいい子でいようなんて、と眉を顰めながら歩を進めれば、不意に腕を掴まれて立ち止まる。 「信じるよ。アタシを助けてくれたもん、來は」 「……アンタって、見かけによらずお人好しなんだな」 「ハァ!? 見かけによらずって、何よ! 素直に優しいって言いなさいよ、ムカつく~!」 またしてもボコボコと叩かれながらも、今度は少しだけ笑顔が零れていく。 歩調を緩めて、再び前へと踏み出して、せせらぎに寄り添って麓を目指す。 一人であったならもっと、心細かったに違いない。 「なんで來はさ、アイツらと一緒にいる羽目になったの?」 「それは……、会いたい人がいたんだ」 「なに、彼女!?」 「ちがっ、なんでそうなるんだよ! これだから女ってやつは!」 「ハァ~!? なに、その言い草! 聞き捨てならないんだけど!」 「と、とにかくっ……、そんなんじゃねえって。大体その人……、男だし」 「ふうん、男なんだ。どんな人?」 「どんなって……、綺麗な人だよ。すごく……」 告げてからふっと、薊の微笑が過る。 どうしてこんな事になってしまったのだろう。 ただ会って話せれば、それだけで良かったはずなのに、いつからか望む関係性から逸れていった。 離れなければ、と何度思ったか分からない。 だが現実はそう簡単にはいかない、彼が現れたらきっと嬉しくなってしまう。 ジャリ、と無造作に転がる石を踏みつけ、ひたすら先へと進んでいく。 「その人、名前なんて言うの?」 「アンタには関係ねえだろ……」 「いいじゃん、ケチケチしないで教えてよ! ねえ、画像とかないの?」 「ねえよ、そんなの」 「なんだ、つまんない。どんだけイケメンなのか興味あったのに」 「イケメンって……、まあそうなんだけど、そういう感じじゃねえんだよ」 「ふうん、そうなの? あ、漸みたいな感じだ」 「だからまた……、ホント懲りねえなアンタ。またあの女に狙われるぞ?」 「ふ~ん! 沢山してやるんだから漸の話! アイツも綺麗なの、すごく。きっとその人とおんなじ感じかも」 とは言われても、漸の顔を知らないので何とも答えようがない。 それでも莉々香は一人で盛り上がり、ああでもないこうでもないと語っている。 半ばうんざりしつつ、だが漸という男に興味を抱いているのも事実で、機会があれば顔を見てみたい。 それまでに、逃げ惑うこの息の根を止められていなければの話だが。 「來って……、学生?」 「違うよ」 「家族は?」 「……いる」 「実家住んでんの?」 「……なあ、そんなこと聞いてどうすんだよ」 「暇じゃん、だって。黙って歩いてんのもやだし……、それに來のこともっと知りたいから。せっかく知り合えたんだもん」 「聞いたって……、何にも面白くねえよ」 「そんなの來が決めないでよね! で、兄弟は? 一人っ子?」 何でそんなこと聞かれなきゃならないんだと嫌になるも、見ず知らずの相手だからこそ話しやすい事柄もあるのだろうか。 本当は誰かに聞いてほしくて、知ってもらいたかったからこそ、躊躇いがちに緩んだ唇から素性が零れていく。 「……兄貴がいる」 「そうなんだ。え、かっこいい?」 「知るかよ」 「ちょ、なんで怒ってんの? もしかして妬いてる?」 「そんなわけねえ。俺はアイツのこと嫌いだから」 「へえ、上手くいってない感じかあ。なんで嫌いなのよ」 「もう、いいじゃねえかよ。そんなこと」 「良くないから! どんな人か教えてよ」 「どんなって……、よく知らねえよ」 「え~、兄弟なのに?」 「兄弟だからって何でも知ってるわけねえだろ。大体、久しぶりに会ったし……」 言いながら、あの時の情景が蘇っていく。 探し物は見つからず、あろうことか兄に奪われてしまい、何もかもが上手くいかない最低の夜だった。 薊の真意を確かめられぬまま時間ばかりが過ぎ、顔を合わせることすら最早許されないかもしれない。 そんなことよりも今は、無事に此処から離れなければいけないと考えを改めても、様々な想いが脳裏を過ってしまう。

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