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麝香

「家族……」 口にすると、何故だか涙が溢れそうになった。 思えばいつの間にか、随分と遠いところまでがむしゃらに来てしまった。 今更この足は、戻れるのか? 戻ってもいいのか? 向き合い方を忘れた足で、ここから迷わず歩ける自信がない。 「一人じゃ怖いんなら、アタシも付いて行ってあげるから」 「なんでそうなるんだよ。そもそもアンタ関係ねえだろ」 「何言ってんの? ここまできたら一蓮托生でしょ!」 「アンタには会わせたくない。……なんか余計なこと言いそうだし」 「來の彼女です! とか~!?」 「ハァッ!?」 「冗談に決まってんでしょ。なに本気にしちゃった? かわいい~」 明らかに馬鹿にされて不満を露わにするも、莉々香はくすくすと笑っている。 一人で帰る勇気はないけれど、背中を押してもらえたら踏み出せるだろうか。 突拍子のないことを次から次に言い出す莉々香に振り回されながらも、それをいつしか居心地よく感じてしまう自分がいる。 彼女が大丈夫と言えば、そうなのではないかと思えてくるから馬鹿げている。 それなのに拒みきれなくて、暖かな光を放つ彼女が眩しくて、暗闇から這い出たいと心の奥底では願ってしまう。 「まずは此処を降りないことには、それも出来ないよね。そろそろ行こっか」 「ああ……」 穏やかな川のせせらぎに心を癒され、傍らで腰掛けていた莉々香が立ち上がり、微笑を湛えて彼女を見上げる。 そうして腰を浮かせて、視界に収めた光景を目の当たりにして、考えるよりも早くに動いていた身体が莉々香の腕を引っ張ると、思いきり自分の後ろへと力ずくで移動させる。 悲鳴と、砂利に倒れ込んだ音が聞こえるも気に掛けられず、縛り付けられたように目前から視線を外せない。 暗闇には、確かに気配があった。影が佇んでいた。 ヒュッ、と息を吸い込んで噎せそうになるのを堪え、どっと溢れ出す冷や汗に縛り付けられて身体が動かなくなり、まるで補食された草食動物だ。 やはり休憩している場合ではなかったと考えたところですべてが手遅れで、二人の男が闇からずるりと這い出てくる。 「よォ、楽しそうだな。いつの間にそんなに仲良くなったんだ? 俺も混ぜてくれよ」 一歩、何とか後ずさりすると声がして、前方で二井谷がせせら笑っている。 「逃げろ……」 流石に気付いてるであろう莉々香へと、前を見据えながら声を掛ける。 しかし後方から返事はなく、自分と同じように恐怖で動けなくなっていることは明らかであり、それだけ目の前から放たれる威圧感は禍々しくて怖気(おぞけ)が走る。 声を張り上げたつもりであったが、実際に絞り出された言葉は今にも震え出しそうで情けなく、自分にも言い聞かせている。 動け、動いてくれ、動かなきゃやられる……! 「逃げろ、莉々香……。逃げろ!!」 渾身の呼び掛けに応じて、突き動かされたように砂利が音を上げたかと思えば、一心不乱に走り出す気配を感じる。 そうだ、それでいい、絶対に振り返るな、行け。 心中で唱えながら後方を気に掛け、足音が少しずつ遠退いていく度に安堵して、自分といえばあれから一歩も動かずに対峙する。 彼女と一緒に逃げ出したいのは山々だが、流石にそれは許してもらえないだろう。 「お前は逃げなくていいのか? 勇敢だねえ」 「なんで……」 「なんで、か。それはこっちの台詞だよな。お前が逃がしたアレ、大事な商品。どうすんの? 金の成る木逃してよォ」 「商品って……。あいつをどうするつもりなんだ」 「それはお前が気にすることじゃねえよ。つか、気にしてなんになる? お前自分が何してっか分かってんのか? 立派な反逆だぜ? これは。やっぱ信用ならなかったなあ、お前」 頭を掻きながら面倒くさそうに二井谷が声を上げ、由布といえば未だ佇むばかりで口を開かず、異質な存在感を放っている。 どうする……、ここから……。 考えたところでどうしようもない事は分かっているし、すでに詰んでいる。 しかし莉々香だけは逃がすことが出来た。 それだけでも上出来であったと言い聞かせ、俺はよくやった、正しいことをしたと子供のように励ます。 そうして自分が、すでに諦めかけていることに気が付いて、何だか笑いが込み上げてくる。 自分で自分の情緒が分からない。 すべてが夢であったなら、どれだけ良かったであろうか。 「どうすんの、コイツ」 由布へと処遇を問い掛けた声で、急に現実へ引き戻される。 こんな時にどうしてか家が恋しくなって、両親を思い浮かべて、嫌なはずなのに兄の顔が過っていく。 こんなところで終わるのか、それだけはいやだ。 恐怖心に掻き立てられて身体が動くも、振り返って走り出そうとした時には肩を掴まれ、押し退けようとしたところで急激に視界がぐらついて衝撃が走る。 何が起こったかを理解するよりも早く、畳み掛けるように追撃を受けて足下が歪み、ごとんと何かを地面に放った音を遠くに聞く。 逃げなきゃ、と思うのに身体は動かず、いつの間にかひんやりとした砂利の上に倒れていて、此の身に何が襲いかかったか分からない。 額を伝い落ちていく血が地面を濡らし、川の流れだけは安らかに心を撫で、近付く死神の足音がやがて傍らでぴたりと止まる。 「容赦ねえ。ここで死んじまったらそれこそ面倒だぞ」 「そんなヘマはしない」 「ですよね、はいはい。あ~、アイツ回収すんのめんどくせえな。どうすんだ?」 「どうにでもなる。濁ったゲスの目で見れば、全部一緒だ」 「ハハ、それもそうか。そんじゃあ、コイツで暫く遊びますかあ。ったく、こんなところにまで逃げ込みやがって。重労働じゃねえか」 朦朧とする意識で、由布と二井谷の会話が聞こえる。 しかしもう、何と話しているかまでは分からず、何処か遠くで起きている事のように思えてしまう。 そのうち身体が浮いて、運ばれているのだと気付いても、無力な自分にはどうすることも出来ないまま意識が薄らいでゆく。 ポタリとまた、血が落ちる。 それは点々と自分を追いかけるように、地面にささやかな染みを残していた。

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