331 / 342
血と洗礼 11
「あ~あ、思い通りにならねえな」
ぼやきながらも、どことなく楽しんでいるかのような口振りで、真宮が居た場所を見つめる。
つい先程まで、此処で彼と会話をしていたとは思えないくらいに、今は静けさが漂っている。
物音も立てずに飛び出していった青年は、すぐにも目的の場所へと辿り着く事であろう。
遠くで扉の開閉が聞こえ、イヤホンを通じて耳慣れた声が響くと同時に一室の空気が緊迫感を帯びていく。
取り押さえようとする声と、抵抗する物音と、足音が重なり合って一帯は混乱の一途を辿る。
「おい、待て!」
やがて、イヤホンを介さずとも聞こえた声に、事態が面倒な方向へ転じた事を感じ取る。
自動販売機の前を横切り、通路へと顔を出せば声を荒らげる真宮の姿が映り込み、視線の先では男が焦った様子で逃げている。
「アイツ……、逃がしやがって」
思わず舌打ちが零れ、不満げな表情で眺めれば真宮と目が合い、追いかけろと言わんばかりに名を呼ばれて腹立たしさが増す。
真宮も追いかけようとはしたが、その最中でエレベーターの到着を知らせる音が鳴り、辿り着く前に男が乗り込んだ事を確認したのだろう。
そうした経緯で掛けられた言葉だが、彼の視線の先には非常階段が見えているのだろうし、もちろん自分でも察しているからこそ、この後の展開が容易に予想出来て不愉快極まりない。
「つか、逃がしたのお前だろうが。はりきって出て行った結果がこのザマとか笑えねえよ」
「ンなこと言ってる場合か! 今行けばまだ間に合う!」
「真宮ちゃんさァ、そんなこと言っていいわけ? 責任、ちゃんと取ってくれんの?」
「分かった! 何でもするからとにかく早くしろ!」
「あっそ。分かった」
彼の返答に微笑みを浮かべると、気乗りはしなかったが踵を返し、瞬時に非常階段へと歩を進めていく。
敵意の無い人間に容赦してしまうお人好しの彼の事だから、きっと先程の男も取り逃がしてしまったのだろうと想像が出来た。
しかしながら納得のいかない展開に、こういう肉体労働こそ彼の仕事だろうと毒づきつつも、一階までの長い道のりを段を飛ばしながら駆け下りていく。
我ながら安請け合いしてしまった事を不思議に思うも、一度引き受けてしまったからには手ぶらでは戻れない。
現状を思い浮かべ、さぞかし間抜けであろう自分に嘲笑が込み上げながら一階へ辿り着き、扉を開けて視線を彷徨わせてエレベーターの位置を探ると、丁度視界に一人だけ駆ける群衆から浮いた姿が飛び込んでくる。
「いた」
思わず零れ落ちた呟きと共に駆け出せば、やがて気付いた男が更なる焦燥感を募らせ、必死の形相で屋外へと飛び出していく。
半ばうんざりした様子で後を追いかけ、程なくして外に出れば空模様は怪しく、今にも雨が降り出しそうな危うさを放っている。
常に視界に捉え、追いつくのは時間の問題だが、歩行者の邪魔が入ってなかなかとどめを刺せないでいる。
ポツ、と堪えきれずに降り出す雨の中、苛立たしさに舌打ちを零し、軒先に置き去りになっていた傘を見つけて引っ掴むと、照準を合わせながら後ろ姿を視界に捉える。
そうして男が人の波を逃れ、路地に曲がったところを好都合とばかりに傘を構えると、思い切り背中目掛けて投げ付ける。
「うわ!」
寸分の狂いなく当たった衝撃に男から悲鳴が上がり、足を縺れさせながら目前で無様に倒れ込む。
一連の様子を見て、ようやく一息つきながら歩みを進めると、くぐもった声を上げる男を蹴って仰向けにさせてから容赦なく腹を踏み付ける。
「手間掛けさせやがって。なァ、どうしてくれんの? アンタのせいで俺、散々なんだけど」
見上げる男の目には、さぞかし美々しく、悪魔のように映り込んでいるだろう事にも構わず、面倒な所用を済ませる事だけを考える。
ともだちにシェアしよう!