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異形
「呆れたな。まだ分からないのか」
「何の事だ……」
「お前はもう少し頭が切れる人間だと思ったが、買い被り過ぎたか」
「だから何の話だっ……」
「奴の事ならもう知っているだろう」
耳元で囁かれ、この男は何を言っているのだろうと状況が呑み込めないながらも、嫌な予感が足元からずるりと這い上がってくる。
奴の事を……、俺が知っている……?
そんな事はないと即座に否定するも、確証も無くヒズルが紡いでいるとも思えず混乱し、ドクドクと鼓動が暴れ始める。
知らない、そのような人物の存在など知らず、会ったこともない。
ヴェルフェのヘッドに万が一でも遭遇していれば、嫌でも気が付くに違いない。
そんな奴には会っていない、そんな粗暴な雰囲気を纏うような輩には誰にも。
「適当な事を言うなっ……。俺はそんな奴には会っていない」
「話をしたんだろう。最近知り合った奴がいるはずだが」
「最近……」
「お前は奴の何を知っているんだ? 盲目的に信じる要素が、たった一時会っただけでアイツの何処にある……?」
「……まさか。いや、そんな……」
最近知り合った者と言われて、思い当たる人物といえば一人しかいない。
しかし彼は違うと、有り得るはずがないと頑として受け入れられず、認めてしまえば一気に窮地へと陥ってしまう。
だが、ヒズルの言葉通りたった一時顔を合わせただけで信じるには、思えば彼の事を何も知らない。
何故、信じる気になったのだ。信じてしまったのだ。
そんな要素など、何一つとして無かったはずなのに。
「あっ……」
真宮はあの男を信じている。
ずるりと這い上がってきた影が纏わりつき、肌に触れられていた手がすっと目元へと宛がわれ、唐突に視界を遮られる。
「そうだ。アイツだ」
耳元で、息がかかるほどの距離で囁かれ、視覚を奪われたことで過敏に反応して身体がぴくりと跳ねる。
あってはならない、どうして気付けなかった、自分がもっとしっかりしていれば状況を変えられたかもしれない。
彼はどうしているのだろう、あの後で二人きりにしてしまったことを後悔しても遅すぎる。
不覚であった、これ以上ない程に。
まんまと油断を突かれてペースに呑み込まれ、気が付いた頃には散々醜態を晒してしまっていた。
「良かったな。ようやく答えに辿り着けて」
「何故……、教えるような真似を……。俺が知ったところで何も出来ないと思っているのか……」
「いいや。こうしたほうが、より楽しめるかと思ってな」
「なに……?」
「俺は、事態がより面白い方向に転がりさえすれば、なんだっていい」
ヘッドさえも利用して、自らの渇きを満たそうとする貪欲さに、暗闇の中で寒気が襲う。
群れの為ではなく自分の為に、より楽しめる方へと足を踏み出している。
自分を満たす為だけに、ヒズルはこの場にとどまっているのだ。
未だに目元を覆う手に触れ、なんとか視界を取り戻そうとするも思い通りにはいかず、後ろ手に取られている腕に痛みが生じる。
「くっ……、いい加減に離せっ……」
必要な事を全て知った今、ますますこのようなところで不毛な時間を過ごしている場合ではなく、いつまでも変わらない状況に歯噛みする。
けれどもヒズルからは何の応答も無く、遠くに聞こえる争いを過敏に察知してしまいながら、真っ暗な闇の中で神経を研ぎ澄ませる。
「お前に何が出来るとも思えないが、精々踊れ」
紡がれた言葉と共に突如として拘束を解かれ、強く背中を押されて体勢を崩しながら前へと足を踏み出していく。
一体なんなのだと思考が追い付かないまま、ようやく踏みとどまって振り向けば、変わらぬ表情で佇んでいるヒズルと目が合う。
ここまできても何を考えているのか読み取れず、本当に一癖も二癖もある人物だと思う。
「なんなんだ、お前っ……」
「行け。好きにしたらいい」
「情けでもかけているつもりか……」
「そんなつもりはないが、そうしたほうがいい気がしてな」
「お前なんかに見逃されるくらいなら死んだほうがマシだ」
「まあ、そう言うな。またいつでも相手になってやる。気が変わらない内に早く行け。俺と話をしている場合か……?」
そう言われて瞬時に冷静さを取り戻し、此処でいつまでも油を売っている場合ではないと我に返る。
見逃されているようでたまらず、情けをかけられて今の状況に達しているかと思うと我慢ならないが、それでも一刻も早く立ち去らなければいけない理由がある。
決着をつけられず、何枚も上手であるヒズルに翻弄されるばかりで頭にくるが、歯噛みしながらも今は大人しく背を向けて闇に紛れていくしかない。
追う気配は無く、暫くはそこにとどまるつもりなのか動きを感じられないが、例え自分の価値を下げる現状でも自由に動ける今この瞬間を大いに利用しなければならない。
鼓動はうるさく脈を打ち、暫くは当てもなく駆けながら携帯電話を取り出し、まずは連絡を取ろうと片手で操作しつつ前へと進み続ける。
自陣にとって今、どのような戦況にあるのかは分からない。
未だとどまっているであろう有仁達が心配であるし、ヒズルがあの場に戻ることも考えられ、不安や焦りは尽きない。
だが戻るわけにはいかない、優先するべきは彼等ではないのだから。
気が急いて思うように操作出来ない自分に舌打ちし、眼下を見下ろす月に姿を晒されながら駆けていく。
嫌な予感ばかりが這いずって、打ち消すことに躍起になりながら。
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