64 / 343

ささやかなる歪み

住み慣れた街が遠くまで見渡せて、時おり颯爽と空を羽ばたいていく鳥を視界に収めて、純白の雲が流れていく景色を全身で感じ取る。 何を言うでもなく、考えるでもなく暫くは佇んでから、タンタンと何段か下に下りると座り込み、おもむろに煙草を取り出して一本咥え込む。 次いでライターを探り当て、揺らめきが消えないように手で囲いながら仄かな光を宿すと、先端へと触れさせてすぐにも紫煙が立ち上ぼり始める。 風に流れて溶け込み、煙草を手に取って静かに息を吐き、安らぐ光景を眺めながら一時を過ごす。 「アイツは……」 それでも、どんなに遠退いた場所で呪縛から解き放たれていようとも、簡単には思考から追い払えずに根深く付き纏う。 つい考え込んでしまっては、いとも容易く唇から名は紡がずともあの男の存在が吐露されていき、そんな自分へと眉根を寄せて不満を露わにする。 あの男は、一体何者なのだろう。 鳴瀬に聞けば解決するのだろうけれど、先程の雰囲気では流石に切り出せず、元より目覚めたばかりの彼にいきなりヴェルフェの事情を問い質すのもなんだか気が引けた。 頂の座を追われただけでなく、かつては確かに仲間として、共に群れへと身を置いていた者達に裏切られた挙げ句無慈悲な暴力を植え付けられ、今では漸の手にその全てが握り込まれている。 これ以上、奴の思い通りにさせるわけにいかない。 アイツは危険だ……、何をしでかすか分からない……。 鳴瀬の手から離れてしまった今、元々は束ねていた立場であろうとなんであろうと、もう彼の言葉にはなんの力も無くなってしまった。 従う者など有らず、踏み込めば更なる追い討ちをかけられてしまうかもしれない。 「近付かせる気はねえけどな……」 意識を取り戻したと知ってヴェルフェが襲来する可能性も否定出来ないし、鳴瀬から出向いてしまう事態も十分に考えられる。 きっと今回は、不幸中の幸いでたまたま運が良かっただけなのだ。 次にまた鳴瀬と漸が一戦を交えるようなことがあれば、その時にはもっと凄惨で取り返しのつかない出来事が待っている気がしてならず、漠然とした想いでありながらも背筋が薄ら寒くなる。 誰もが踏み止まるところを平然と越えていきそうな、そんな危うさを暗き双眸の奥に見た気がしていた。 「こんなところに居たんですか」 願わなくてもきっとまた顔を合わせてしまうことになるであろう青年を思い浮かべ、複雑な心境で煙草を咥えて紫煙を遊ばせていると、後方から声を掛けられて振り返る。 「ナキツ……」 咥え込んだまま小さく呟くと、扉の前に佇んでいたナキツが穏やかな笑みを浮かべながら、ゆっくりと歩を進めて近付いてくる。 「どうしたんですか? こんなところで」 「ん……? 別に、何にもねえよ。風に当たりてえなあって思っただけ」 「そうですか。俺も少し、風に当たっていっていいですか?」 「ハハッ、なんだよそれ。俺の許可なんかいらねえだろ」 可笑しなことを言うなあと笑みを溢せば、隣にやって来たナキツが腰を下ろし、視線を向けられて静かに微笑む。 「傷……、痛みますか」 時おり過ぎ行く風に身を撫でられ、青年が二人並ぶと流石に少し手狭な階段で、目前ではナキツがすぐにも表情を曇らせて話し掛けてくる。 視線の先には、未だ根を生やしている傷があり、漸の拳によってもたらされた怪我を見つめられている。 あの夜に比べればだいぶ痛みも治まり、癒えてきていることから剥き出しのまま晒していたのだけれど、痛々しく残る痕にナキツは辛そうに眉を寄せている。 「大したことねえよ。こんなもん……、怪我のうちにも入らねえ」 撫でるように口元の怪我へと指を這わせ、情景を思い出してしまいながら複雑な感情を滲ませていると、手に巻かれている包帯に今度は視線を移される。 それに気が付かないまま傷口を擦り、だいぶ和らいできていることを確認していると、不意に腕を取られて驚いてしまう。 隠しているとはいえ、白い布地の下では悪しき行いの証が残されており、一瞬背筋を冷たいものが流れていく。 「あの男と……、漸と、やり合ったんですか」 ちらりとナキツの表情を窺うと、彼は視線を下ろして手に触れており、怒りとも悲しみともとれる感情を露わにしながら言葉を絞り出している。 「……ああ」 「アイツは……、強いですか」 「……認めたくねえけど、強いな。でも……、勝てない相手じゃねえ」 「あの日……、彼と何があったんですか?」 依然として手に触れられたまま控え目に答えていると、あの夜のことを切り出されて言葉を詰まらせる。 同時に、完膚無きまでに攻め落とされて陥落させられた様が脳裏を掠めていき、不快感により一層眉間に皺を刻み込んで唇を閉ざしてしまう。 単に一戦を交えただけであるならば、こんなにも言葉にし難い想いに駆られずに済んだというのに、未だにどうしてあのようなことになってしまったのか到底理解出来ずにいる。 アイツは……、なんであんな真似を……。 「真宮さん……?」 「あっ……、ワリィ。あの野郎とは……、やり合っただけだ。ケリはつけられなかったけどな……」 「そう、ですか……。何にせよ、真宮さんが無事でいてくれて良かったです」 「大袈裟だな……。そんなやわじゃねえぞ、俺は」 「真宮さんに、もしものことがあったら……、俺は……」 「ナキツ……。バカ、なんて顔してんだよ。俺は大丈夫だ。そう簡単に潰れたりしねえよ」 そうしてフッと笑い、やんわりとナキツの手から逃れて腕を上げると、切なげな表情を浮かべている彼の頭をポンポンと優しく撫でてやる。

ともだちにシェアしよう!