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vibrant

壁際にて立ち、一歩も動けないでいる心境を知ってか知らずか、程なくしてナキツが目の前へとやって来る。 「どうしたんですか? ぼんやりして」 つい先ほどまでとは打って変わり、目と鼻の先では穏やかな微笑を湛えているナキツが居り、漸と対峙していた時のような厳しさは何処にも感じられない。 茶褐色の髪をさらりと揺らし、知性に富んだ眼差しを真っ向から向けられており、見慣れているいつものナキツが其処には立っている。 正直なところ、あそこまで敵意を剥き出しにしているナキツをこれまで見たことがなく、殆ど初めてと言っていいくらいかもしれない。 柔らかな表情を浮かべていながらも、常に物事の全体像を把握し、冷静且つ的確に判断している印象が強く、誰かに対してあそこまで噛み付くのは非常に珍しいと感じる。 それだけに戸惑い、あのような状況であったが為に少々驚いてしまい、未だに目前の彼とを一致させられないでいるのだが、よくよく考えてみれば至極当たり前の反応なのだ。 漸は、今や敵対関係にあるヴェルフェというチームのヘッドであり、大切な友人である鳴瀬を痛め付けた張本人である。 そのような輩を相手に、幾らナキツといえども冷静でいられるわけがないし、恐らく自陣の誰であっても怒りを露わにするであろう。 それが当然であり、真っ当であり、以外に有り得てはならないのだ。 「真宮さん……? 大丈夫ですか」 「ああ……、なんでもねえ」 改めて自らの罪を思い知らされ、目眩がしそうだ。 視線を合わせていられずに顔を背け、いいように振り回されてばかりいる現状に歯噛みしても、過去を変えられもしなければいつまでもあの男が付いて回る。 今でも漸を許してはいないし、いっそ殺してやりたいくらい憎らしいと感じているし、ヴェルフェごと叩き潰してやらなければいけないと思っている。 だが現実はどうだ、俺は何をやっている。 調子ばかりを狂わされ、いつでも余裕の笑みを湛えては我が物顔で突き進み、きっと全てが彼の思惑通りに運んでいる。 一体何を考えているのか片鱗すら覗かせてもらえず、実のところ誰の姿も映り込ませてはいないくせに、彼はいつだって優しい振りをして微笑んでいる。 常に笑みを浮かべてはいるけれど、突き放すように冷たい眼差しが全てを物語っているようであり、ますます彼を理解出来ずに混迷を極めている。 「嘘が下手ですね……。全然大丈夫じゃないって顔してますよ」 目の前にナキツがいるというのに、居もしない相手に思考を捕らわれたまま突っ立っていると、不意に声を掛けられて顔を上げる。 湛えられていた笑みはなりを潜め、心配そうに注がれている気遣いをくすぐったく思いながらも、すぐにも申し訳なさへとすり替えられていく。 どれだけ思い詰めた表情をしていたかにも気付かず、その様を見てナキツが何を想っているのかも分からないまま、暫しの時を静寂に支配されながら視線が絡み合う。 「あの男が……、貴方にそんな顔をさせているんですか」 縫い付けられたかのように逸らせぬまま、眉を寄せて複雑な表情を浮かべているナキツが口火を切り、じっと見つめられて居たたまれない。 「あの男が、貴方の思考をも奪って離さないんですか。あの夜から、ずっと……」 「ナキツ……」 一帯を巡る空気が、変わっていく。 思わず後退りしそうになると、ナキツに腕を掴まれて身を固まらせてしまい、一体自分は何に怯えているのだと不思議に思う。 何ものが行く手を阻もうとも、背を向けるどころか真っ向から飛び込んでいく気質でありながら、今はたった一人の青年に攻め入られてたじろいでいる。 目前では、甘やかで気品のある顔立ちをしている青年が佇んでおり、絡み付く視線は此の身を捕らえて離そうとしない。 笑顔が見えないだけで、こんなにも急激に不安になっていくなんておかしい。 名を紡ぐだけで精一杯で、喉が渇いて二の句も告げずに干からびていき、僅かに唇を開いたまま静止している。 そうしている間にも、スッと細められた瞳に全てを見透かされそうで、気が付けば壁に背中が当たっている。 腕を掴んでいる手に力が込められ、苛立ちにも似た感情がどっと全身へと注ぎ込まれてくる。 「あの男と、一体何があったんですか。何も無いとは言わせない。俺を欺けるなんて思わないで下さい」 「だから……、何度も言ってんだろ。アイツとは何もねえって……」 「それが……、貴方の答えなんですね」 「ナキツ……? おい、いてぇって……。腕、離せよ……」 意味深な台詞を残して俯いたナキツが気に掛かり、声を発するも反応はない。 だが腕は解放してもらえず、普段の様子からは想像も出来ないくらいに強い力で、何かを押し殺しているかの如く掴まれている。 此処に居てはいけないと、激しく警鐘が打ち鳴らされる。 これ以上二人きりで居てはいけない、仲間の元へ戻らないと彼が次なる行動を起こしてしまう。 思考なんて読めるはずもないのに、なんとなくその先は聞きたくなくて身構えてしまい、いつだってこういう時の予感は外れてなんてくれない。 「真宮さん」 「なんだよ……」 名を呼ばれ、おずおずと口にしながらナキツの様子を窺っていると、暫しの静寂で充たされていく。 聞きたくない、頼むから何も言わないでくれ。

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