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虚ろなるもの

「うわっ!」 しかし追跡は叶わず、足を掛けられて容易く転んでしまい、もたもたしている間にも仲間との距離が開いていく。 片手でナイフを弄んでいる憂刃と、黙々と歩みを進めているナギリに挟まれながら、行き先も告げられないままにいずこかへ向かわされている。 そうして何故、共に行動出来ず引き剥がされているのか気に掛かり、魂胆が見えなくて一人きりにされて不安で仕方がなくて、より一層困難な奈落の底へと叩き落とされていく。 「手ェ貸してやろうか」 膝をついて去り行く後ろ姿を呆然と見つめていると、頭上から声を掛けられておずおずと視線を向ける。 金髪を後ろで纏めている青年が、何がそんなに楽しいのか笑みを浮かべて見下ろしており、怯える手をぎゅっと結んで顔を背ける。 嫌われちまった、と笑いながらぼやいている声が聞こえるも、反応を返している余裕もなければ気分でもなく、今にも泣き出しそうな心境で悲しみに暮れている。 元はと言えば、全て自分が悪いのだ。 驕り、甘く見て、調子に乗っていた。 なんでも思うがままに事を運ばせられると勘違いし、覚悟も無しに首を突っ込んで引っ掻き回し、常に安全圏から楽しんでは優越感に浸っていた。 まさか素性を知られるとは夢にも思わず、相手からやって来るなんて考えもせず、井の中の蛙であったと嫌という程に思い知らされる。 これといって目立つ出来事は無いけれど、平凡な日常を当たり前に過ごせる幸せに、尊さに、どうしてもっと早く気が付けなかったのだろう。 あまりにも愚かで、未熟で、取り返しがつかないと今更ながらに分かっても、後悔しても現況が覆る僅かな要素にすら成り得ない。 「何もしてないっ……。アンタ達には何もしてない……!」 銀髪の青年へと向き直り、尻餅をついたまま身勝手な台詞を喚き、恐怖に喘ぐ自分を押し殺して視線を注ぐ。 いずれ手を出すつもりではいたけれど、ディアルの青年に諭された今ではもう悪さする気にもならず、面々とちゃんと話して元の生活へ戻る姿勢でいた。 しかしすでに片足どころか、どっぷりと浸かっていた半身は今更這い上がれず、逃げ場なんてないと凍てつく双眸が語っている。 「はい、これ持って」 わけが分からず、言いたい事が山程あるはずなのに、混乱してどうするべきなのか何も考えられない。 すると、暫し思案している様子で佇んでいた青年がしゃがみ込み、纏っている上着の内側へと手を差し入れる。 程無くして何かを持ち、折り畳まれていたそれから刃が引き出され、眼前へと差し出してナイフを持てと迫られる。 どうしてそんな物騒なものを手にしなければいけないのかと、青ざめていやだと首を振るも許してはもらえず、やがて恐々と腕を伸ばして受け取ってしまう。 持っている手を掴まれ、何をしようとしているのか不明でも抗えず、鋭い切っ先から伝わってくる感触に疑問が生まれる。 とうに視界へと収まっているはずなのに、なかなか起こっている出来事を呑み込めずに間が空き、何をさせられたのか理解したくない。 「あっ……」 手を掴まれて無理矢理に振らされた切っ先は、あろうことか目前にてしゃがむ青年の掌を傷付けており、滲み出る血を視界に捉えて息が詰まる。 なんで、なんでと頭の中で幾ら繰り返しても分からず、震える手をしっかりと掴まれていて離れられず、そうしている間にも滲む血が伝い落ちていく。 「あ~あ……、手ェ出しちゃった。どうするの? コレ」 刃を当てられているというのに、彼はそのまま握り込み、尚も鮮血が滴って見ているだけで頭がくらくらしてくる。 「ち、違う……。俺じゃないっ……、何もしてないっ……。離してよっ……、血が、血が出てるっ……」 「灰我……」 掴んでいた手が離れ、すでに溢れ掛けていた涙が一筋零れ落ちたのを機に、堰を切ってボロボロと頬を伝い落ちていく。 冷ややかな指にそっと頬を撫でられ、新たに零れそうな涙を掬われながら、不意に呼び掛けられてびくりと身体を震わせる。 「お前がいい子にしていれば……、お友達には何もしないし、今や風前の灯火の骸にも手出ししない」 「ほ……、ほんとに……? ほんとなの……?」 「本当だよ……、お前も悪いようにはしない。ただほんの少し……、戯れに付き合って欲しいだけ」 「なに……、それ……」 「何も考えなくていい。お前はただ……、俺に従ってさえいればいい。出来るな、灰我。簡単だろ……?」 魅惑に満ち溢れた悪魔の囁きが、鼓膜へと滑り込んで思考を麻痺させていく。 本当に仲間を助けてくれるのだろうかと心配になっても、初めから選択肢なんて存在もしていなければ、目先で差し出された提案を受け入れる以外に為す術もない。 迷う資格も無ければ、拒む力すら無く、目の前で虚ろなる笑みを湛えている青年が恐ろしくて、何を考えているのか全く分からなくて怯えている。 触れる手は、尚のこと突き放すように冷たく、欠片も安心感を抱けなくて焦りばかりが生じ、己の未来が虚ろなるものによって閉ざされていくのを感じる。 握らされていた刃物から手を離し、程無くして彼も力を緩ませて、血に濡れたナイフが音を立てて地へ落ちる。 鮮血を滴らせながらも、彼は痛がる素振りも見せずに平然としており、何事も無かったかのように目前で笑んでいる。 「分かったから……、お願いだから……、皆に酷いことしないで……」 「いい子だね……。聞き分けのいい子は嫌いじゃない。大丈夫……、あの子達は一足先に家へ送り届けているだけだよ」 本当に何もかもが筒抜けのようで、連れていかれた少年達が骸を立ち上げた初期の面々であることも、ヴェルフェにはとうに知られている。 聞き入れたくない、拒絶したい、倒したいけれどもあまりに無力であり、細腕では自分すら満足に守れず頼りない。 此処から逃れても、彼等には全てを知られているのだから、何処にも安寧の地なんて存在しない。 急速に奪われていく日常を渇望しても、あまりにも目映い日々であった営みは、ほんの少し踏み外しただけでアッサリと闇に閉ざされる。 すでに何度悔やんだか数えきれないけれど、願ったところで微塵の救いにすらならない。 もう、どうにもならないのだ。

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