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Tritoma
「足下に気を付けて下さいね」
一時の眠りに就いてから、あっという間に事が運んでいるような気がする。
何時かも分からぬまま、気が付けばもうナキツの家に辿り着いており、店を出てからの流れを殆ど覚えていない。
今は丁度、玄関で靴を脱いでいるところであり、淡い照明に包まれていながらも足取りが覚束無い。
ふわふわとした心地に揺れる視界、ぼんやりとしていて頭は働かず、ほんのりと頬を染めながら目蓋を懸命に押し上げている。
ナキツに声を掛けられた気がするも、右から左へと綺麗に通り抜けてしまっており、壁に手を付いて大人しく靴を脱ぎ終える。
導かれるままに歩き、前を行くナキツは心配そうに振り返りながら、やがて廊下を歩んだ先の扉を開け放つ。
「どうぞ」
立ち止まって待ってくれているナキツに促され、ゆっくりと歩いて居間へと入り、見慣れた空間に酔っていながらも自然と安堵してしまう。
何度か訪れた経験がある部屋は、相変わらず綺麗に片付いていて清潔感があり、穏やかに漂う空気にも酷く心を落ち着かされた。
白を基調とし、観葉植物が幾つか飾られており、引き寄せられるようにソファへと歩いていく。
ナキツの部屋に来たのだという当たり前の事実を今更ながらにぼんやりと考えてしまい、どうしてこうなったんだっけと思うも大した問題ではない。
「何か飲みますか?」
静かで、寛げる一室へと辿り着き、吐息を漏らしながらソファへ腰掛け、夢うつつのような状態で辺りに視線を向ける。
そのような様子を見て、ナキツはすぐ側へと歩み寄り、甘やかな低音を響かせて問い掛けてくる。
「水……、くれ」
聞かれて初めて喉が渇いていることに気付き、掠れた声を発して水を要求すると、ナキツは静かに微笑んで歩んでいく。
視線を向けると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出している姿が見え、グラスを用意して注いでくれている。
冷えて気持ちが良さそうな水を波打たせ、程無くしてナキツがグラスを片手に再び姿を現し、すぐにも目の前へとやって来る。
「大丈夫ですか? 気を付けて下さいね」
気遣う台詞と共にグラスを差し出され、朧気な意識の中で手を出して受け取るも、力が入らずにするりと抜け落ちそうになる。
ナキツが手を差し伸べ、グラスの底を掌で受け止めてくれたお陰で抜け落ちず、またしても水に濡れてしまうという展開からは免れる。
しかしまともに持っていられない者が、無事に一人で飲みきれるはずもないので、ここは諦めるしかないとぼんやりしながらもそう考える。
「わり……。持ってらんねえから、やっぱいいや……。そこ、置いといてくれ……」
申し訳なさそうに声を掛け、向かいにて鎮座しているテーブルへ置いてもらおうと思い、ナキツの顔を見上げる。
「喉……、渇いてるんですか?」
「ちょっとな。でも、今持ったら零しそうだから後で……」
と言い掛けたところで、触れていたグラスをやんわりと浚われ、てっきりテーブルに置いてくれるのだろうと思っていたのだが、何故だかそうしてくれる気配もなく不思議に思う。
どうしたのだろうかとナキツを見つめ、程無くして彼はグラスへと口を付け、よく冷えた水を含む。
ナキツも喉が渇いていたのかと暢気に思うも、彼の行動は予期せぬ方向へと逸れていき、ソファに一方の膝を付いて傍らに身を置くと、次いで差し出された手が顎に触れてくる。
「ナキツ……?」
すり、と親指の腹で唇を撫でられ、徐々に互いの距離が狭まっていく中でようやく状況を理解し、すでに熱を持っている頬が更に温度を増していく。
「あ……、ナキっ……んっ」
一瞬酔いが行方を眩まして慌てふためくも、逃してはもらえずに唇が重なり合い、心地の良い冷えを纏った水分がとくとくと移されてくる。
「ん、ふっ……」
店での口付けよりも深く、時間を掛けて重ねられ、含まれていた水分が溢れて顎を伝い落ちても構わず、想いを吐き出すかのように続けられていく。
「はぁっ、あっ……、ナ、キツ、待てっ……」
水を注ぎ終えても、満足に息が出来ず苦しくなっても、一度触れ合った唇はなかなか解放してはもらえず、やっとの思いで言葉を紡ぎ出しても首筋を撫でられてびくりとする。
「んっ……! おいっ、ナキツ……。待て、やめっ……、ナキツ!」
懸命に発された名が、どうやらナキツの耳へ届いてくれたようであり、ぴたりと動きが止まる。
「はぁっ……、ナキツ……。どうした……?」
何がなんだかわけが分からなくて、呼吸が整わぬうちから目前の青年へと声を掛け、静かに彼の唇から紡がれるであろう言葉を待つ。
間近で息をついている青年は、熱情により頬を上気させ、暫しの時を黙して視線を逸らしている。
「どうして……、こんなことしたと思いますか」
「え……?」
「意味も無く、していると思いますか……?」
「なに、言って……」
眼差しに捕らえられ、真意が分からずに果ては気圧され、動揺を滲ませる。
すると彼は、溢れんばかりの想いと共に突如として腕を引き、力強く此の身を抱き締めてくる。
思考が追い付かず、想像も出来ない展開の数々に驚くばかりであり、一体ナキツはどうしてしまったのだろうかと戸惑ってしまう。
「ナキツ……?」
「きちんと言わなきゃ、分からないですよね……」
抱き寄せられ、遠慮がちに呼び掛けるも一人言のような紡ぎが漏れ、明確な答えを授けてもらえない。
彼も酔っているのだろうか、そのような姿なんて見たことがなかったので、そうであるならば珍しいのだが、今をどう過ごしていれば良いのかは不明である。
台詞の後に抱き締める力が強まり、首筋にくすぐったさが過って微かに眉を寄せるも、彼はそれきりほんの一時を黙り込む。
そうして意を決したかのように話す気配を感じ、囁かれた台詞に更なる驚きを植え付けられてしまう。
「好きです……、真宮さん。貴方のことが……、ずっと……」
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