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惑いしもの
「アレ? そういえば瑞希ちゃん、今日塾じゃなかったっけ」
「ん~、今日は休みにしたからフリー。ああ、自由って素晴らしいなあ」
「ハァ? なんだよ、それ。そんな勝手が許されると思ってんのかよ」
「いいの。お前だってサボることくらいあんだろ? たまには休まないとやってらんねえの。息抜き大事っしょ~」
日頃からよく行動を共にしている面子が揃い、当たり前のように顔を突き合わせて話し、他愛ない言い合いをしては自然と笑みが零れていく。
初めから何も無かったのだと錯覚してしまいそうなくらい、いつも通りの日常が目前にて広がっており、もしかしたらもう事は起こらないのではないかと思えてしまう。
気配すらなく、何かが起こりそうな予感もなく、ただ漠然とした心配だけが思考を覆い尽くしている。
二人の笑顔を見る度、言葉を交わす度に理由なき安心感で充たされていき、逃れたい想いから勝手に良い方向へと考えを改めようとしてしまう。
きっとからかわれただけであり、あの夜に全ては終わっていたのだと、怯える姿を見て面白がられていただけなのだと、逃避していく気持ちを抑えられなくなっている。
「まあ……、一日二日行かなくても、この俺が遅れをとるわけがないし?」
「うわ~……、すっげぇやな感じ。ちょっと成績がいいからって調子乗んなよな」
「ちょっとじゃなくて、かなりだから。いや、ぶっちぎり? あ~、頭良過ぎてつれェわ~。誰か早く俺を学年トップから引きずり下ろしてくんないかな~」
「く~! 颯太! コイツすっげームカつくぞ!」
「あはは、まあまあ。瑞希ちゃんが成績優秀なのは本当のことだしね」
代わり映えのない日常、今ならば分かる尊き日常。
会話を続けていくうちに気が紛れ、自信満々なだけあって実際本当に優秀な生徒である瑞希へと、遠慮なく不満を並べて唇を尖らせる。
塾に通っている点では一緒だけれど、瑞希の両親は相当教育熱心なようであり、満足に自分の時間も得られないくらいには縛られている。
大抵の者であればすぐさま根を上げ、非行に走るなり塞ぎ込むなり何かしら負の泥沼に浸かりそうなものだが、傍らにて笑顔を浮かべている少年からは一切感じられない。
常に期待に応えながらも自身は決して潰れず、適度に身も心も休ませながら羽を伸ばし、器用に最早業務とも言える工程をこなしている。
「そういえば瑞希って、兄ちゃんいるんだっけ」
「え? あ、ああ。うん、いる……けど……。それが何か?」
「なんでいきなりそんな動揺してんのか意味分かんないぞ……」
ずっと緊張して強張っていた身体から力が抜け、二人へと内心感謝しながら寝そべり、なんだか急にあたふたと余裕を失っている瑞希をじっと見つめる。
「ほらほら、がっちん。瑞希ちゃんてば、お兄ちゃん好き過ぎてまともに顔合わせられないって話、前にしたでしょ」
「あ、そうだったかも」
「ちょ、颯太! 否定は……、しない、けど……」
カァッと頬を赤らめて視線を泳がせている姿に、今のところ唯一の弱点を見つけたような気がする。
普段は憎たらしくて自信家で狡猾で良いところが一つも見えないけれど、実は結構可愛いところもあるのだなあと意外に思う。
「お兄さんの名前なんて言うの? 聞いたことなかったよね」
「え? あ、そうだっけ。響 、だけど……」
「響か~。いい名前だね!」
「だろ~!? クールでかっこよくて頭も良くて不良なんだぜ! マジかっこいいの、うちの兄ちゃん!!」
今までに見せたこともないようなとびきりの笑顔で、兄について語り始めた瑞希は相当キラキラと輝いており、本当に好きで仕方がないのだなという想いが伝わってくる。
どちらかというと普段は大人びていて、まるで悟りでも開いているかのような落ち着きを放っている少年が、兄に関すると途端に年相応の可愛い弟の一面を大放出し、一人っ子としては少し羨ましくもある。
居たら居たで煩わしく感じることもあるだろうし、所詮は無い物ねだりでしかないのだけれど、お兄ちゃんが欲しかったなあと机に突っ伏しながら一人思う。
そうして自然と思い浮かべてしまう存在にハッとし、どうして兄が欲しいからといってディアルの青年を思い出してしまうのだろうかと、鼓動が速まって妙に焦ってくる。
真っ直ぐに見つめられ、諭され、優しく笑い掛けてくれた姿が忘れられない。
今まで目にしてきた者達とは違い、暴力で事を為そうとはせずに真っ向から向き合って受け止め、話を聞いてくれた。親身になってくれた。
「兄ちゃんがいたら、あんな感じなのかな……」
真宮と共にいた青年からも優しさで充ち溢れており、彼が統べるチームがどれだけマガツとは違うのかがよく分かる。
比べようとすることが最早間違いであり、かなり手加減された認識はあり、そのお陰で多くの仲間達はすっかりディアルという群れに心を奪われてしまっている。
「また会いたいな……。今度はちゃんと、謝るんだ……」
颯太と瑞希の会話を余所に、心地好い風に身を撫でられながら小さく呟き、いつの間にかすっかり自分も心を奪われてしまい、きちんと会って謝りたいと思っている。
許してくれるだろうか、あんなことをしてしまったのに。
怪我はしていなかっただろうか、今では確かめる術もないけれど。
「颯太も兄貴いるよな? アレ、二人だっけ」
「うん、いるよ~。高校二年生と、三年生。あとあと……」
「ん? もう一人いるんだっけ」
「うん! お兄ちゃんでお姉ちゃんでお母さんみたいな人がいるよ!」
「え……、なにそれ」
「ふふふ。俺ね、咲ちゃんのことすっごく好きなんだ~。いっつもツンツンしてるけど、ホントはとっても優しいのがバレバレなんだよね」
気が付けば身内自慢へと発展しており、物思いに耽りながらも耳を傾ける。
颯太って三人兄弟じゃなかったっけ、なんて考えを巡らせつつ、幸せそうに語らう声が絶えず聞こえてくる。
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