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惑いしもの
今にも震えそうな身体を宥め、血の巡りが止まってしまいそうなくらい拳を握り締め、重い足取りでとうとう正門を越える。
そうして視線を滑らせると、女生徒に取り囲まれている一人の青年を捉え、背筋をぞくぞくと冷たいものが流れていく。
視線を奪われて逸らせず、自然と冷や汗が滲んでいき、なり振り構わず逃げ出してしまいたい衝動を懸命に抑え込む。
事情なんて一切知らない彼女達は暢気なもので、珍しい訪問者にはしゃぎながら頬を色付かせており、見目麗しい青年に心を奪われている。
「やあ、灰我君」
道行く生徒の視線を浴びながらも、銀髪の青年は何処吹く風といった様子で微笑み、目当ての人物が現れたことに気付いて声を掛けてくる。
どれだけ柔らかに言葉を紡がれても、あの夜に刻み込まれた恐怖を拭えるはずもなく、生唾を飲み込んで表情を強張らせてしまう。
それでも立ち止まっているわけにはいかなくて、彼の元へ行こうと怖々一歩を踏み出し、微笑を湛えている青年へと近付いていく。
陽光に晒されている青年は、あの夜に出会った時とはまた違う印象をもたらしており、現在は女生徒と丁寧に言葉を交わしている。
にこりと優しげに笑い掛けるだけで、彼女達は悲鳴にも似た声を発しながら昂っており、そいつに騙されていると言ったところできっと信じてはもらえないのだろう。
「お迎えに上がりました。灰我君」
程近い場所へ辿り着くと、再び青年から視線を注がれ、愛想笑いすら出来ないままに立ち止まる。
そのような様子を見て、何を考えているのか全く分からない青年が微笑むと、胸に手を当てて頭を下げてくる。
思わずぎょっとし、一方でますます関係性が分からなくなっている彼女達は、楽しそうに青年と此方を交互に見ては、ひそひそと小声で話して無駄な予想を立てている。
「なんで……」
「急に来て驚かせてしまったかな。ごめんね、灰我君。どうしても君に会いたくて、我慢が出来なかったんだ」
心にもないことを言って微笑んでいる青年に、周囲はまんまと騙されてとろかされている。
透けるような白銀を風に弄ばせ、暗色のスーツを身に纏っている青年からは、得も言われぬ色気と共にミステリアスな雰囲気が立ち込めている。
日常ではまずお目にかかれないような存在に、年端のいかない少女達は熱を上げて虜と化し、美しく品の良い青年に見惚れている。
何をしたわけでもないというのに、気が付けば周りを巻き込んで取り込み、抗い難い魔力のようなものに引きずり込まれている。
この男は一体なんなのだろう、どうして得体の知れない青年に心を動かされてしまうのだろう。
味方なんて一人もいない、彼を疑っている人間なんて此処には誰もいない。
皆が彼を見ては、脳裏へと焼き付かせて容易く意識を支配されている。
「この前はゆっくりと話が出来なかったからね、今日は約束を果たしに来たよ。おいで……、灰我」
「何処に、行くの……」
「秘密。着いてからのお楽しみだよ」
行き先を告げられたところで、はなから拒絶する権利なんて無い。
彼についていくしか道はないのだから、どのような言葉を交わしても無意味である。
其処で涼やかに佇んでいる青年が、ヴェルフェという悪鬼羅刹のような群れに属していることを、きっと誰も知らずに彼を眺めている。
これ以上人目につくのは避けなければと意を決し、彼と共に行くしかないと一歩を踏み出し、何処かへと向かおうとする。
「あっ……」
二歩目を踏み出そうとしたところで、急に背後から両の腕を掴まれて驚き、思わず視線を巡らせる。
見れば颯太と瑞希が立っており、それぞれに腕を掴みながらも自分の行動に驚いた様子であり、三人で間の抜けた声を上げている。
「あ、ごめんね。その、つい……」
「ごめん、なんか気付いたら腕掴んでた」
「おかしいよね。なんかがっちんのこと、このまま行かせたくないなあって思っちゃった」
「俺も……。なんでそう思ったのかは、自分でも分かんねえんだけど……」
理由には行き着けないけれど、何かを感じて咄嗟に腕を掴んでしまい、二人は顔を見合わせながら辿々しく言葉を紡いでいる。
銀髪の青年から、表面上からは感じ取れぬであろう得体の知れない空気を敏感に察し、ただ突き動かされるままに此の身を引き止めてくれている。
その気持ちだけで、十分だった。
「なんだよ、二人してなっさけない顔して。なんか分かんないけど引き止めちゃったとか意味分かんねえし!」
けらけらと明るく笑い、その他大勢とは違って簡単には流されない二人を見て、とても誇らしく思う。
単なる美しい青年として片付けられないでいる二人に、ささやかながらも気持ちを分かってもらえたような気がして嬉しくなる。
だからこそ、この先へと巻き込むわけにはいかず、早く此処から立ち去らなければと意思を固める。
「二人とも、またな! 今度こそ一緒にゲーセン行こうぜ!」
するりと手が離れていったのを機に、努めて明るく振る舞いながら手を振り、余計な心配をさせないように精一杯の虚勢を張る。
尻込みする余地を与えぬよう、間髪入れずに銀髪の青年へと向き直って速足で近付くと、ふっと微笑んだ彼について歩いていく。
注がれる視線を感じていながらも振り返らず、うるさく打ち鳴らされている鼓動を静めようと、無意識に胸元へと手を添える。
ぎゅっと制服を掴んでも落ち着きを取り戻せず、傍らに青年がいるという事実だけで焦りを生み、何処に向かっているのか分からないことが殊更不安を煽ってくる。
窺うように見上げてみると、傍らで歩を進めている青年の姿が映り込み、微笑を湛えながら視線は先を見ている。
「何か気になる……?」
何も知らなければ、自分も周囲と同じように視線を奪われ、ただ美しさに心を奪われていただけであったかもしれない。
だが、彼がどういった者であるかを少なからず知ってしまっている今では、恐怖の方が先に立ってしまっており、声を掛けられてすぐさま視線を逸らして前を見つめる。
そうして視線の先に、一台の車が停まっていることに気が付き、遠目に運転席に何者かがいるのを確認する。
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