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惑いしもの

思いがけない言葉を掛けられ、一体どういう意図で紡がれているのだろうかと気になるも、不穏な空気に晒されて頭の中が真っ白になる。 ついていくだけで精一杯で、自然と足音を殺してしまいながら歩を進め、躓かないように注意して階段を上がっていく。 アイツと呼ばれている者の話題に、自分が登場してしまうのは何故だろうかと必死に考えても、何一つとして慰めにすら辿り着けないでいる。 無関係と決め込んでいたのに、漸の口振りからもしかして自分にとって関わりのある人物なのだろうかと、混乱に呑まれている思考を少しずつ働かせる。 けれど、捨てるとはどういうことなのかが全く分からず、出来るならば一生理解なんてしたくない。 何を想って紡がれている言葉なのかが分からない、何処までが本気なのか全然自信が持てない。 ただただ重苦しい影がまとわりつき、今にも常しえの闇へ引きずり込もうと狙っているかのようであり、やはり目前で手を引いている彼は危険だと警鐘が打ち鳴らされている。 それなのに、我が身へと災いをもたらす存在であると確信が持てるのに、その手を振り払うことすら出来ずに現状へ甘んじている。 「あれだけ威勢のいい台詞を並べておいて、結果手加減しちゃうなんて……、君の何がそうさせてしまったんだろうね」 「え……?」 「くだらねえ正義感を振りかざしたが為にどうなるのか……、君にもとっても期待しているよ。だから俺を……、失望させるなよ。灰我……」 独り言のように呟かれていたと思いきや、不意に投げ掛けられて驚いてしまい、呼び捨てにされる度に身が凍り付く。 含む物言いでありながらもなかなか核心には触れてもらえず、関わりがあるのは明確なのにいつまでも蚊帳の外へと放られてしまい、言い様のない薄気味悪さばかりが募っていく。 一体何を求められ、何をさせようとしているのか、彼の唇からは未だ紡がれようとはしていない。 それどころかまるで何事も無かったかのように次には笑い掛けられ、器用に切り替えられるはずもなく表情を強張らせながら、いつの間にか新たなる扉の前へと辿り着いている。 一旦は立ち止まるも、何の躊躇いもなく漸の手により開け放たれ、心の準備も出来ないままに先へと進めさせられる。 恐る恐る視線を向け、立ち止まる自由すら許されずに手を引かれ、辺りを見回しながら内部へと進入を開始する。 煌々と照らし出されている通路に人気は無く、忽然と姿を消しているヒズルの行方を気にしつつも、その前に此処は何処なのだろうかと首を傾げる。 立ち並ぶ扉を素通りし、正体を掴めないでいる現実にますます恐怖心を煽られて、そうしている間に先を行く漸の後ろ姿と共に、一際重厚感のあるドアが見えてくる。 あれから彼は何も語らず、気まずい沈黙に晒されて心細さが際立つも、後をついていくしか出来なくてもどかしい。 無駄でしかない思考を巡らせ、やがて彼の足が先に目当ての扉へと辿り着き、やはり心の準備もままならないうちに開け放たれてしまう。 考えている間もなく視界が開け、随分と広々とした空間に出てきたことを知り、辺りを見回している最中でヒズルの姿を見つける。 「随分と時間をかけて来たな」 淡々と投げ掛けられ、片手に持たれている煙草からは、紫煙が揺らめきながら何処かへと流れていく。 慣れない景色が一帯を彩り、物珍しくてつい状況を忘れて見渡していき、ライブでも出来そうな舞台や様々な機材、カウンター席や無数の酒瓶が置かれている棚などが目に留まり、ここってクラブってやつ……? と行ったこともないのにそのような当たりをつけてしまう。 ミラーボールだ! と心の中で発しながらきょろきょろと辺りを眺め、あちらこちらにまばらではあるが人の姿を確認する。 「あら~、漸君じゃない!」 うずうずと探検したくてたまらない衝動に駆られつつ、好奇心を抑え込みながらじっと立っていると、何処からともなく声が聞こえてきて視線を巡らせる。 「こんにちは、摩峰子(まほこ)さん」 現れた者であろう名を紡いでから、するりと手を離されて一時の解放を得る。 銀髪の青年が見つめている先には、笑みを浮かべながら歩いてくる一人の女性が居り、あまりに華やかで美しい佇まいに思わず見惚れてしまう。 胸元まで伸ばされている艶やかな髪は、緩やかに曲線を描いて蜂蜜色に煌めいており、得も言われぬ色気を漂わせている彼女にとてもよく似合っている。 「は~、相変わらずいつ見ても綺麗よね~。うっとりしちゃう」 溜め息を漏らしながら恍惚としている元へ、漸は微笑を湛えて歩を進めていき、何がなんだか分からないままに立ち尽くしているも、何をしていたら良いのか分からなくて居たたまれなくなってしまう。 「つめたっ」 心細そうに立ち尽くし、今なら逃げても見つからないのではないかと過るも、実際に行動へ起こす勇気はない。 そんな中、ぼんやりと辺りを見つめていると不意に頬へひんやりとした感触がぶつかり、びくりと肩を震わせて声を上げてしまう。 視線を向けると缶と共に手が映り込み、状況を呑み込めないまま見上げると、首筋に刺青をしている黒髪の青年と視線が交わり、相変わらず表情からは感情の機微が窺えない。 「好みじゃなかったか」 紡がれてからハッと我に返り、その手に持たれている炭酸飲料を受け取ると、ちらりと再び窺うようにヒズルへ視線を向ける。 「これ……、好き」 「そうか」 「……ありがと」 「別にいい」 目が合ってしまうとすぐさま逸らしてしまい、それでも唇を開いて僅かに間を空けてから、ぼそぼそとひんやりとした缶を両手で持ちながら言葉を並べる。 口数も少なく、淡々としていて取っ付きにくく、全く表情が変わらないので怖い印象ばかりが先に立ってしまうけれど、なんだか優しいと思えてしまうあたり、度重なる恐怖心を植え付けられ過ぎてとうとう感覚が麻痺してしまったのだろうか。 半ば強引に浚われたようなものなのに、お礼なんて述べてしまうあたりどう考えても普通じゃない。 それなのにどうしてか、傍らで紫煙を燻らせているヒズルの存在に、ほんの少しだけ安らぎを得たような気になり、居場所がない気まずさから僅かでも解放されたように思えてくる。

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