147 / 343
惑いしもの
再び促すように肩へと触れられ、どうやら場所を移動するのであろうことに気が付き、怯えを滲ませながらもつい視線を注いでしまう。
すぐにも銀髪の青年が視界に入り、摩峰子を見つめながらにこりと笑い掛けており、次いで軽く頭を下げている。
摩峰子も応えるように手を振り、今度こそ一時へと幕が下ろされていくようであり、先行きの不透明な立場であることに不安を感じながらも立ち尽くし、やがて漸と共に足を踏み出さなければならない。
「今度またゆっくりお話しましょうね~!」
新たな緊張感に包み込まれていると、摩峰子が華やかな笑みを浮かべながら視線を注ぎ、手を振って声を掛けてきたことに戸惑ってしまう。
ヴェルフェと繋がりがある以上、美しく優しげな人物であろうとも極力関わりたくはないのだが、短時間ではあったものの包むようなおおらかさで接してもらえたお陰で、少なからず沈んでいた気持ちを紛れさせることが出来ていた。
声を発する勇気はないけれど、控えめに手を振れば摩峰子は嬉しそうに顔を綻ばせ、今考えることでもないけれどやはり女性にしか見えないなと思ってしまった。
「あれ、エンジュは……?」
「行方知れずだ」
「ふらふらと何処をうろついているんだか。エンジュといい、お前といい、いつになったら手綱を握らせてくれるのかなァ……」
「初めからお前に預けている」
「嘘つき。素直に飼われているようにはとても見えないぜ……? 特にお前は……」
漸と共に歩み始めると、自然とヒズルも足を踏み出して付き添い、閑散としている箱庭を横切っていく。
相変わらず彼等からは上っ面だけのやり取りが交わされ、そんなことはもうどうでもいいからせめて外の空気が吸いたいと考えながら歩き、それにしてもエンジュは何処へ行ってしまったのだろうかとつい過る。
「俺はまだ、お前を見極めている最中だ」
「いい結果が出ることを願ってる。エンジュ、探してきてくれない……?」
彼が求めるとヒズルは何も言わず、けれども踵を返して此処から離脱していくのが分かり、唐突にまた漸と二人きりにされて背筋がうすら寒くなる。
ヒズルだけでも居てくれたら少しは落ち着いていられただけに、立ち去られてしまって鼓動が焦りを募らせていく。
「こういうところに来るのは初めて……?」
焦燥感に駆られている様を嘲笑うかの如く、傍らにて共に歩みを進めている漸に話し掛けられ、言葉へと乗せる代わりにこくんと控えめに頷いてみせる。
「そう。君みたいな可愛い子が、夜に一人でこんなところに居たら大変だろうね……?」
何がどう大変であるのかは怖くて聞けず、殆ど独り言のような語らいへと耳を傾けながら、視線の先にそびえている階段を目指しているのであろうことを人知れず理解する。
「お遊びはこれくらいにして……、そろそろ本題に入ろうか」
言いながら髪を撫でられ、それだけで途方もなく恐れを感じてしまい、彼はいよいよ本来の目的へ着手しようとしているのか、何の為にこうして顔を合わせているのかを明かそうとしている。
「真宮に、また会いたいんだろう……?」
階段へと差し掛かり、彼に付き従っていると聞き覚えのある名を発され、同時にあの夜の情景が蘇ってくる。
「大丈夫。すぐにまた会える。君は普段通りの生活を続けていればいい」
こつ、と踵が鳴り、上がっていく程に景色が広がっていき、重厚感のある装飾が施された扉が視界に入ってくる。
一階をより広々と見渡せ、階段を上がり終えた先には踊り場があり、大勢の人で溢れるであろう夜の眺めは、此処からどのように映るのであろうか。
「普段通りに……?」
「うん。そうすればきっと……、向こうから会いに来てくれるから」
漸が先行して進み、立ちはだかる扉の片側だけを開けると、視線を寄越して入るように促される。
何処へ向かおうとしているのか気になるものの、それよりもまたディアルの青年に会えるかもしれないという期待が勝り、怒られてもいいからもう一度どうしても顔を合わせたいと願ってしまう。
一時の出来事ではあったけれど、優しさが痛い程に身に染みたから、きちんと見てくれて、考えてくれていることが嬉しかったから、現状を変えられなくても一目会えるだけでだいぶ心が安らげると思った。
「何でもしてくれる優しい灰我君に、此処で俺からささやかなお願いがあるんだけど、聞いてくれるかな……?」
彼の前を通り過ぎ、扉を潜ればふかふかとした絨毯が敷かれていることに気付き、深紅の通路が先へと伸びている。
降らされた台詞を反芻するもよく分からず、彼からもたらされようとしている願い事が分からず、立ち止まった背後ではギギと扉の閉まる音が聞こえてくる。
いくつかの個室が用意されているのか、視界には立ち並ぶ扉が映り込んでおり、ゆっくりと語らいながら過ごすにはうってつけの場所であろう。
「お願いって……、うわっ!」
振り向いたところを唐突に手を引かれ、一番近くにあった扉を開けたかと思えばぐいと引っ張られ、一室に連れ込まれて体勢を崩してしまう。
転んでも触り心地の良い絨毯に守られて痛みは無く、すぐさま視線を向けると後ろ手に扉を閉めている漸が見え、彼は凭れながらしゃがみ込んでじっと此方を見つめてくる。
そろそろと上体を起こし、鋭い双眸に囚われてそれきり身動きがとれなくなり、暫しの静寂が辺りへと覆い被さっていく。
「君になら簡単に出来ることだよ」
優しげに紡がれている台詞の割に、スッと上着の内側へと手を差し入れると、何かを取り出して投げ込んでくる。
手元に転がり、一体なんなのだろうかと見つめていく程に青ざめ、それがなんであるのかを程無くして理解してしまう。
「それで……、真宮を刺してこい」
震えが走りそうな身体を抑えているだけで精一杯であり、どうして目の前に折り畳まれたナイフがあるのか理解し難く、銀髪の青年が何を言っているのか分かりたくもない。
「お前になら油断する。だからきっと……、簡単に出来るから大丈夫」
何が大丈夫なのか分からず、理解なんてしたくもなくて頭の中がこんがらがり、自分に何をさせようとしているのかをようやく察して血の気が引いていく。
ともだちにシェアしよう!