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惑いしもの

なんで、どうしてと胸中で繰り返されるも答えは在らず、薄暗い一室にて相対しながら、彼からもたらされた鋭利な刃が使い手を求めて伏せている。 「なんで……、そんな……」 言葉にならない声を漏らすも、差し出された現実を突き返すことすら出来なくて、より激しい緊張感に苛まれて呂律が回らなくなっていく。 この手で彼を、ディアルの優しき青年を刺してこいと、優美な佇まいの人物から確かに命ぜられている。 刺す……? なんで……、どうしてそんなことしなきゃいけないんだよ……。 やだよ、そんな……、あの人にそんなことしたくないよっ……。 ぐるぐると巡る思考と共に吐露される感情も、白銀の悪しき青年の前では何の意味も成さず、心変わりなんて初めから望めない。 ただ求められているのは、目前にて鎮座している凶器を手に、真宮の身を貫くことそれのみである。 想像しただけで気が遠くなりそうであり、自分を受け入れようとしてくれた優しさを裏切って傷付けなければいけない未来しか残されていないことに絶望する。 刃は何も語らず、それをじっと眺めてはいるものの何にも考えられずにぼんやりとし、身を強張らせて冷や汗が滲み出す。 本当にそんなことをしなければいけないのか、そうする道しか残されていないのかと混迷を極めており、揺れ動く心情により頼り無げな表情を浮かべている。 「どうしたの……? 声が震えてるね」 閉ざされた一室、窓すらない部屋にて漸と相対し、唯一の退路である扉は彼の背後にしかない。 微笑を湛えている彼は、見目麗しい容姿に柔らかな表情を浮かべているはずなのに、猛悪な魔物としか思えなくて絶え間無く恐怖が募っていく。 目前にて此方をじっと見つめてくる彼は、一体何者だというのか。 血の通う同じ人間であるはずなのに、どうしたらそのような酷としか思えない命を告げられるのか。 影が差す空間にて白銀を揺らし、黒衣を身に纏う存在はさながら死に神のようでもあり、一体自分を何処へ導こうとしているのかと身震いする。 「言ったよな……? お前は、何も考えなくていい。ただ俺に従ってさえいればいい。そうしてお前は……、なんて言った……?」 あの夜の出来事が脳裏を過り、自分は確かに全てを受け入れて分かったと、そう言ってしまったことを覚えている。 こんなことになるなんて……、でも、でもっ……、聞き入れる以外には何も、俺には……、言えなかった……。 分かったと聞き入れる以外には、あの夜の自分には選択肢なんてなかった。 例えこうして今、更なる負の連鎖が巻き起ころうとしていても、目前にて視線を注いでくる白銀の悪魔が怖くて、彼の意思に反することで何をされるだろうかと怯えて、結果としてどんどん泥沼に嵌まっていってしまっている。 「分かった、て……」 「そうだね。お前は、俺のささやかな遊びに付き合ってくれるんだよな……?」 「で、でも……、こんな、こと……」 「出来ないなら……、お前ごと改めて、あのくだらねえままごと連中を可愛がってやるだけだ。学校のお友達も、家族も、お前が大切にしているもの全て……、俺の手中にあることを忘れるなよ」 「みんなには、酷いことしないって……」 「お前が聞き分けのいい子でいるなら……、誰も彼も幸せだ。取るべき行動なんて一つだろ。なァ……、灰我。そうだよな……? お前が素直に頷くだけで、みんな毎日笑って暮らしていけるんだよ」 逃げられない、拒めもしない、従うしかないのかと、惑いしものの世界が虚ろに閉ざされていき、尚も白銀の魔物が猫撫で声で凶行へといざなっていく。 真宮を刺すだけで、全ての安寧が約束される。 従わなければ容易く崩れ去り、何もかもを暴かれている身に逃げ場なんて残されていない。 友人や家族は大事だ、けれども窮地に陥る程に分かってしまう愚かさが、我が身が可愛いと捲し立てる。 言う通りにするだけで、身の安全が守られる。 極限状態で逃げ場を失い、考えることを放棄してしまいたい、どうしてこんなに苦しまなければいけないのかと、重圧に耐えられなくて今にも潰されてしまいそうであった。 「アイツは必ずお前の前に現れる。会わなくて済む方法を模索しようなんて思うなよ。いつも通り……、お前は単調な毎日を過ごしていればいい」 「上手くなんて……、いかないよ……」 「何を企てようと勝手だが、お前の行動は筒抜けだってことも忘れるなよ。此処を出たら、いつも通りに時間を潰していればいい。分かったな……? 上手く出来たら……、君からも手を引いてあげるよ。晴れて自由の身だ。良かったね」 「自由……」 自由という言葉だけなのに、酷く魅力的に思えて渇望する。 言う通りにすればもう、苦しみから解き放たれて元の日常に戻れるの、悩まなくて済むのと気が急き、目前の者との縁を切りたいが為に大事なことが見えなくなっていく。 怖い、怖くて仕方がない、微笑まれているのに恐怖しか感じられず、悪魔の囁きによりどんどん自分が戻れない淵へと追い詰められていくのが分かる。 それでも自分はあまりにも頼りなく、我が身すら満足に守ることも出来なくて、きっと此処で頷かなければ痛い目に遭わされてしまうであろうことは必然だ。 いやだ、怖い、痛いのはいやだ、帰りたい、帰りたい、みんなに会いたい。 様々な想いが渦巻き、後にも先にも行けずに苛まれるも、そろそろと屈服させられてる身は一時的でも漸からの解放を求めて、横たわる凶器へと手を伸ばしてしまう。 「いい子だね。そうだ、それでいい……」 こんなこと本当はしたくない、したくないんだと胸中で繰り返すも、早く此処から脱け出したい想いに突き動かされ、どうせ逃れる道なんてないのだという諦めにも背中を押され、彼を刺す為だけに存在する刃を手に、取ってしまう。 全てが暗く、閉ざされていく。 目前にて視線を注いでいる彼は、相変わらず美しい容貌に笑みを乗せ、行く末を静かに見守っている。 唯一の退路を背に、凄々とした眼差しを一身に注がれて、自分はあまりにも無力で愚かであると途方に暮れるも、どうすることも出来ず、元より意思など持ってはいけないのだと、悟る。 逆らうなんて、此の身には到底出来なかった。

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