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Digitalis
「あの野郎……!」
櫨 色の髪を揺らし、何段か飛ばしながら一気に駆け上がり、獰猛な獣の如く風を切る。
荒々しく足音を響かせ、階上を睨め付けては腕を振り、勢いよく踏み込みながら突き進んでいく。
全身の筋肉が躍動し、じんわりと額には汗を滲ませ、鋭い眼差しは翳 ることなく前だけを見据えている。
複数の気配は絶えず、我武者羅に上を目指しているようであり、未だ灰我を奪われたまま追跡し、ふっと息を漏らしながら確実に距離を狭めていく。
自らへと鞭を振るい、やがて4階を示している踊り場へと辿り着き、すぐさま次なる階段へと視線を巡らせたところでようやく、逃げおおせようとしている一味の後ろ姿を捉える。
「逃げられると思ってんのか!」
牙を剥いて猛り、其の身を捕らえるべくますます力をみなぎらせ、全員の姿を眼前に晒してやろうと足を速める。
そうして階段を駆け上がり、新たな踊り場へと踏み入れて向きを変え、見上げて息つく間もなく追い掛けようとしていると、内の一人が視線の先にて佇んでいる。
足元から徐々に顔へと視線を巡らせ、下卑た表情で見下ろしている人物と目が合い、両の腕を掲げながら余裕を湛えて立ち止まっている。
不審に思うも急には動きを止められず、階段を駆け上がり始めたところで双眸が捉え、目前にて何かを振り下ろそうとしていることに気が付く。
「くっ……! マジかよ!」
察すると同時に卑しき青年が、重々しく横にして掲げていた消火器を投げ下ろし、思わぬ危機に瀕して声を上げる。
躊躇いもなく、単純に此の身を傷付けることだけを目的とし、宙を舞ってそのものが速度を纏って迫り来る。
一刻の猶予も有らず、当たれば無事では済まされない代物を前にし、思考を巡らせている場合ではない。
視線は逸らさぬまま、咄嗟に腕を伸ばして手すりを掴み、無理矢理に身体を引き寄せて足を止め、背を反らせた傍らを消火器が掠めていく。
程無くして床へと叩き付けられ、鈍い音を反響させながら壁へとぶつかり、やがて沈黙して身を伏せる。
あのようなものが当たれば、打ち所が悪ければただでは済まず、すんでのところでかわせたものの背筋が薄ら寒くなる。
流石はやり口が汚い、想像力も乏しい、短絡的で学習能力も無に等しく、どのような手を使おうとも屈伏させればそれで良いと、優位であると勘違い出来る単純な思考の持ち主のようだ。
迫り来る炎から身を守るべき武器が、下衆な使い手によって汚され、横たわりながら冷えた床にて伏している。
再び視線を階上へと戻し、避けられて不満そうに舌打ちをしながら青年が駆け、それを機に止めていた足を踏み出していく。
「テメエッ……!」
怒号が響き渡り、当たらずとも時間稼ぎをさせてしまったようであり、複数の足音が遠退いている。
走り続けて身体は熱く、脱ぎ捨ててしまいたいくらいの熱気を纏いながら、とんでもないことをしてくれる青年の後を追う。
時間にしては僅かであろうが、気が遠くなるような距離を駆けてきている思いであり、そろそろ次の舞台へと話を進めたいところではある。
逃げていく足音を耳にし、またもや突飛な行動へと移る可能性も捨てきれない為、警戒を強めながらも臆することなく追い求める。
傷だらけの割に元気いいじゃねえか……!
顔に絆創膏が貼られていたりと、生傷が多く刻み込まれているにしては、軽快に身体を動かして果敢に立ちはだかってくる。
ヴェルフェと交えていたとして、先を行く三名だけは間違いなく特例が下っており、状況を更に引っ掻き回すべく放たれているような気がしてくる。
俺が灰我と接触することも、テメエにはお見通しだってことかよ……!
苦々しく吐き捨て、灰我へと会いに行くであろうことも見越して、腸が煮え繰り返る余興を準備してくれていたとするならば、なんという憎たらしい奴なのだろう。
まるで試されているようだ、この手で本当に守りきれるのか否かを、冷え冷えとした双眸に値踏みされながら、この手で救いきれずに失墜する時を今か今かと楽しみに待たれているようであり、思い通りにさせてたまるかと牙を剥く。
あの男は、嘘で塗り固められている。
本心など露程も見せなければ、歩み寄ってくることもない。
柔らかな表情も、優美なる佇まいも、穏やかなる口調も、全ては相手の警戒心を解く為だけに存在しているまやかしだ。
どれだけ愚弄すれば気が済むのか、確証が無かろうとも漸が関わっているであろうことは明白であり、ひたひたと再び相見える時が近付いている。
どうせ守ってやるんだろう……?
という声が今にも聞こえてきそうであり、掌の上で踊らされているような展開には納得がいかないが、今だけは大人しく従っておいてやると怒りを押し殺す。
最も優先するべき事は、連れ去られている灰我の身の安全を確保することであり、あのような輩など何人が束で襲い掛かろうとも高が知れている。
手加減をする必要もない塵芥が、わざわざ向こうから暢気に身を晒して来てくれているのだ。
握られている拳には期待が宿り、暴虐なる獣が喉を鳴らして鎖が引き千切れる時を待ちわび、荒事へと引き摺られる程に血が沸き立っていく。
思考を切り替え、まずは奴等を地へと這いつくばらせ、身の程を弁えさせねばなるまい。
「なんだ……?」
集中して追い詰め、やがて扉を蹴破るような鈍い音が響き渡り、見上げながら独白する。
次いで足音が消えていき、階段を上り終えて何処かへと移動したようであり、彼等の一手が読みきれないながらも駆けていく。
何が仕掛けられていても不思議ではないが、その程度では一時すらも足を止めることなんて出来ない。
迷わず突き進み、足音を響かせながら走り続け、やがて一枚の扉が視界へと映り込んでくる。
派手さは無く、何の装飾も施されていない扉であり、眼前へと白き壁となって立ち塞がっている。
気が付けば、一体何処まで駆け上がって来てしまっていたのだろう。
階段は終わりを迎えようとしており、扉を越えた先には屋上が広がっているのではないだろうか。
近付いていくにつれて歩調を緩め、呼吸を整えつつ扉との距離を詰めていき、その先に居るであろう者共を思い浮かべる。
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