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Digitalis
煙草を片手に、男の手首を掴みながら灰我を見下ろし、優しげに笑い掛ける。
少年は、初めこそ戸惑いの表情を浮かべてはいたものの、次第に心を開いて笑顔へと変わっていく。
束の間ではあるが、出会ってから最も穏やかなる一時が流れていき、灰我の視線が真っ直ぐに此の身へと注がれている。
そうして力強く頷かれ、お許しが出たところで手に力を込め、掴んでいる輩の手首を捻り上げていく。
悪足掻きを許さず、依然として灰我と視線を合わせたまま力ずくで押し切り、やがて青年の手中からぽろりとナイフが零れていく。
「うっ……! クソッ! テメエなんなんだよ!」
血の巡りが止まりそうな程に強く掴まれ、手に力を入れられず苦悶の表情を浮かべながらも、往生際悪く吠えてくる。
形勢逆転し、それどころではなくなったことで容易く力が緩み、気が付いた灰我が青年の腕からすかさず逃れていく。
「知ってんだろ……? ディアルの真宮だ。覚えておけよ、クソ野郎」
告げてから煙草を咥え、好戦的な笑みを浮かべながら拳を握り、輩の頬へと容赦無く一撃を喰らわせる。
避けられるわけもなく、見事に命中して体勢を崩し、鈍い音を立てながら地へと勢い良く倒れ込む。
呻き声を漏らし、たった一発で心を折られてしまったようであり、無様に天を仰いでは痛みに苦悶の表情を浮かべている。
「ヴェルフェの後ってのが気に食わねえが、まあ仕方ねえか。おい、これに懲りて少しは反省しろよ? また何かしやがったら、見つけ次第ぶっ飛ばしてやるからな」
煙草を手に笑い、果たして耳に届いているのかは分からないが、当分は大人しくしてくれることだろう。
すっかり牙をへし折られ、情けなく地べたを這いずっている者共を尻目に、側で佇んでいる灰我へと向き直る。
「大丈夫か」
落ち着いた声音で語り掛けると、地へと伏している男を見つめていた灰我の視線が、ゆっくりと此方に向けられる。
「うん。大丈夫……」
「そうか……」
少し照れ臭そうにしながらも、微笑を湛えて素直に受け答えし、特に怪我もしていないようで安心する。
静かな夜が舞い戻り、つい先程までよりも格段に心の距離が縮まり、少年を取り巻いていた緊張感が薄まっている。
笑顔で返し、時おり紫煙を燻らせながら夜風に身を任せ、優しい一時が流れていく。
「ありがと……」
消え入りそうな声でぼそりと呟かれ、恥ずかしいのか視線を逸らしてもじもじしており、そのような様を見せられて自然と笑みが溢れる。
「なに照れてんだよ、お前。ついさっきまで散々可愛くねえことばっか言ってやがったくせに」
「う、うるさい! なんだよ人がせっかく……!」
「はいはい、分かった分かった。お前が無事で良かった。ったく、冷や冷やさせんじゃねえよ」
怒り出す少年を宥め、ぽんぽんと軽く頭を叩いてから背を向け、無用な場所からとっとと立ち去ることにする。
「コイツらは……?」
「ほっとけほっとけ。その内勝手にいなくなんだろ。お前に手ェ出そうって気にももうならねえだろうし、それでも懲りなきゃまた一発喰らわせてやるよ」
残党の様子を窺いつつ、今後が気に掛かるのか言葉を紡いできた少年へと、ゆったりと歩を進めながら答えていく。
学ばない連中ではあるけれども、これで流石に大人しくなるのではないかと思っている。
自陣でも目を光らせるつもりであるし、また何か良からぬ事を企てるような動きがあれば、何度でも叩き潰してやればいい。
少年が後をついてきていることを認識しながら、戦意喪失している者共を置き去りにして、来た道を戻って屋上から退いていく。
ようやく懲りたのであろうか、一味は依然として倒れたまま反撃を試みようなどとは思わず、曇天の下で涼風に身を預けている。
それでも警戒は怠らず、傍らを通り過ぎてやがて開け放された屋内へと近付き、煌々とした明かりに包まれた階段が少しずつ見えてくる。
「まだ遊びたいなんて言わねえだろうな」
「もう帰るよ」
「よしよし、いい子だな。それでいい」
「うっ、なんだよ。撫でられたって嬉しくない」
「ンなこと言ってる割には嬉しそうに見えるぜ? なんでそんなに顔赤いんだよ」
「もう、うるさい!」
「ハハハッ、悪りぃ悪りぃ。そんな怒んなって」
階段の前で立ち止まり、追い付いてきた灰我と暫し言葉を交わし、手触りの良い髪を優しく撫でる。
少年は悪態をつきながらもやめさせようとはせず、ほんのりと頬を赤らめて視線を逸らし、心地好いけれども素直にはまだ言えないでいる。
すかさずからかえば機嫌を損ねられ、つい笑ってしまえば更なる怒りを買ってしまい、ころころと反応が変わっていくので見ていてなかなかに面白い。
灰我にとってはいい迷惑だが、それでも大分警戒心を緩めてくれているように思え、少しは心を開いてくれているのだと思う。
だが、これで全てが終わったわけではない。
根源にはまだ触れておらず、明るみにしなければならない案件が残っている。
「アンタ実は強いんだ」
「どうだ、思い知ったかよ」
「あんなびしょ濡れだったのと同一人物とは思えない」
「可愛くねえ……。つうかいい加減そこから離れろよ」
行きとは反対に、帰りはゆっくりと階段を下りていき、つい先程までの事が嘘のような静けさに包まれている。
途中で床に転がっている消火器を見つけ、そういえばそんな事もあったなと思いながら通り過ぎ、一体何処から持ち出してきたのかと思案するも今となってはどうでもいい。
傍らには灰我が居り、歩調を合わせて大人しくついてきており、もう先を急ごうとも考えていないようである。
それでもまだ、靄がかかっているようで視界は完全に開けておらず、肝心な事を未だに聞けていない。
多少は歩み寄られているとは言え、いきなり問い掛けたところで彼が素直に話してくれるだろうか。
これまでずっと何かを隠そうと躍起になっている少年の唇から、その事を告げさせるのは果たして可能なんだろうか。
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