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Digitalis
踵を鳴らし、相変わらず落ち着き払った様子で歩を進め、彼がゆっくりと近付いてくる。
忘れもしない白銀を揺らし、腹が立つ程に優美なる佇まいで此方を見つめ、見目麗しい容貌に笑みを湛えている。
暗色のスーツを身に纏い、敵対勢力であるヴェルフェの頂点が、目前にて確かに今存在している。
左の眉尻に収まるピアスが鈍く輝きを帯び、にこりと微笑んではいながらも胡散臭く、今となっては表向きだけの表情であることがよく分かっている。
笑顔の裏では正反対な事を企てている、そういう輩なのだ。
「やあ、灰我君。こんなところで出会うなんて……、奇遇だね」
良からぬ雰囲気に満たされ、程無くして足を止めた青年から声が掛かり、背を向けていた少年の肩が大きく震える。
あからさまにびくりと反応を示し、それだけでもう、わざわざ灰我の口から聞き出そうとしなくても十分である。
灰我と漸には接点があり、隠そうとしていた事柄には白銀の青年が根深く絡んでいる。
嫌という程に証明され、マガツとは比べ物にならないくらいの怯えを滲ませて、つい先程までの勝ち気さを完全に失っている。
「灰我……? どうした、お前……」
「灰我……。約束、覚えてるよな……?」
言葉にならない声を漏らし、漸の呼び掛けに過剰なまでの反応を示し、一体何にそんなにも呪縛されているのかと疑問に思う。
問い掛けには答えず、初めから聞こえていないような素振りで、あどけない少年の顔から血の気が引いていく。
不安げな表情を浮かべていながらも抗えず、諦めにも似た境地で心を揺さぶられ、少年の脳裏を恐怖のみが覆い被さっている。
「灰我? おい、どうした……? アイツと何があった」
「あっ……、俺……、俺は……」
「ちゃんと肌身離さず持ってるんだろう……? 早くそれを出して見せてあげるといい。出来るよな? 灰我。言うこと聞かないと……」
最後まで紡がれる前に、弾かれたように顔を上げた灰我が数歩後退り、肩から提げていた鞄へと触れる。
視線を注がれ、漸に対する恐怖だけで満たされており、何が起こればこのような表情をさせられるのかと考えただけで辛くなる。
声のみに後押しされ、視線を交わらせながらも手はごそごそと鞄を漁っており、程無くして何かを探っていたらしい動きがぴたりと止まる。
「俺……、いい子でいなきゃ、ダメなんだ……」
「灰我……?」
「遊ぶのは……、やっぱり、無理みたい。俺にはっ……、こうすることしか出来ないからっ……」
声を震わせ、どのような意味が込められているのか分からない台詞を紡ぎ、ゆっくりと鞄から腕を引き抜き、その手には何かが握られている。
全てを諦めて腕を振るい、空気を裂く音と共に鋭い刃が露わになり、目前にて広がる光景を呑み込めず言葉を失う。
今にも泣き出しそうな顔をしておいて、どうして少年はナイフを握り締めて対峙し、此の身を狙おうとしているのだろう。
後方では先程と変わらぬ笑みを湛え、じっと静かに見つめながら漸が佇んでおり、元凶なんて暴く前からとうに分かりきっている。
「テメエ……、コイツに何しやがった」
「何にも……?」
鋭い眼差しを向けるも、漸は全く意に介さない様子であり、自分から明らかにしてくれる気は今のところ無いらしい。
事の行く末を楽しそうに眺めている青年から視線を逸らし、再び少年へと向き直って、なんとかその手から物騒な刃物を取り上げなければと思案する。
時おり浮かべていた切なそうな表情や、あの時にはぴんとこなかった台詞の数々が、今更になって意味を成していく。
だからお前は、俺と離れたがったのか。
だからお前は、素直に甘えることも出来なかったのか。
鋭利な刃を握り締め、扱い慣れない代物に手を震わせており、自ら望んでやっていることではないとすぐにも分かる。
「灰我……、俺を見ろ。アイツに何を言われた、何をされた。話してみろ、お前がそんなもんを持つ必要はない」
「やめろよっ、お願いだから近付かないでよ! やっぱり、無理なんだ……。もう、どうすることも出来ないっ……」
「どうしてそう思う。お前はこのままでいいのか。それで俺を刺すのか? お前にそんな事が出来るのかよ」
「やらなきゃいけないっ……。いい子に、してないと……、俺……、おれっ……」
「灰我……、お前はそんな奴じゃない。アイツの言うことに左右されるな。お前はどうしたい、お前の望みはなんだ。尊重するべきはテメエの意思だろ」
「それでもっ……、どうにもならないことだってある……!」
「どうにもならねえなんて誰が決めた。何にもしねえうちから諦めんじゃねえ。灰我……、此処がお前の正念場だ。何があっても俺がお前を守ってやる。お前は……、そんなことしなくていい」
少年の心は揺れ動き、とうとう堪えきれずに涙が溢れ出すも、ナイフを握る手には依然として力が込められている。
躊躇いを孕みつつも、容易に離れられない理由が根差しており、後にも先にも行けずに少年は苦しんでいる。
心の底からこのような展開を望むわけもなく、そんなことは誰に聞いて確かめる必要もない。
短い間であったけれども、つい先程まで見せてくれていた表情が真実であり、少し生意気だけれどもそれすら可愛い奴なのだ。
此の身を傷付けない限り許されないと言うのなら、その手から離すことが出来ないと言うのなら、今の自分に行える精一杯で尽くしてやろうと思う。
「え……? あ、ダメだよ! やめっ……」
「おかしな奴だな……。それで俺を刺さねえとダメなんだろ? なんで、やめさせようとするんだよ」
「あっ……、だって……、だってこんなっ……、離してよ!」
「お前が離せ。じゃねえとこのまま、もっと握り締めちまうぞ」
制止を振り切って刃を握り締め、痛みを伴って鮮やかなる血が滲み出し、指を伝い始めていく。
灰我は懸命にやめさせようとするも聞かず、言ってることとやろうとしてることが噛み合ってねえよと笑い、ぼろぼろと涙を溢している少年の頭を撫でる。
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