164 / 343

Digitalis

嗚咽を漏らし、絶えず大粒の涙を溢している灰我を見つめ、落ち着かせるように柔らかな髪を撫でる。 ぷつりと緊張の糸が切れてしまったのか、自分でも最早止められないようであり、上手く言葉を紡げないでいる。 「焦らなくていい。お前には俺がいる」 ふ、と優しく笑い掛け、溢れて仕方がない涙を指で掬い取り、少年の心が整理されていくのを気長に待つ。 じっと佇んで見守り、随分と重い荷を背負わされていたらしい少年は、ずっと一人で苦しんでいた。 「ごめんな。あの時に逃げていくお前らを、追えば良かったのにな……」 そうしていたら少しは、異なる展開になっていただろうか。 けれども今更、過ぎ去りし過去を変えることは不可能であり、くよくよと嘆いたところで何にも始まらない。 大事なのは今であり、そうしてこれからどうしていくかである。 押し潰されそうになりながらも耐え忍び、ようやく手の届く場所にて弱さをさらけ出してくれている少年を見つめ、何としてでも守ってやらなければと決意を新たにする。 「苦しませて悪かった。すぐに気付いてやれなくてごめんな。でももう、お前が思い悩む必要なんてねえよ」 「なんで……、謝るの……? なんにも悪いことしてないのに……。全部、俺が悪いのに……」 「灰我……。お前は、こんな事をする奴じゃない。アイツの言葉に惑わされるな。お前はもっと、ずっと強い奴だ。マガツにも立ち向かえる勇敢な男だろ……? お前は」 「でも……、あんな奴等とは全然違うよ……。俺、あの人に全部……」 「お前が本当に望んでいる事はなんだ……? 何を言われたのか知らねえが構うな。俺が知りたいのは……、お前の本心だ。灰我」 血に塗れていくのも構わず、依然として刃を握りながら語り掛け、今にもくずおれてしまいそうな少年の心を柔らかに包み込む。 そうして次第に力を失い、するりと握り締められていたナイフから灰我の手が引いていき、それを合図に隅へと投げ捨てる。 カランと音を上げ、役目を全うすることなく打ち捨てられた禍々しき刃は、一切を語らず地へと伏せる。 溢れでる血は止まらず、ナイフを追い払っても指先を伝い落ちており、鋭い痛みが此の身を苛んでいる。 だが今はそんな事よりも、目前にて立ち尽くしている少年が気掛かりであり、彼を救えるのならこんな痛みなんて大した問題にすらならない。 「お前は生意気なガキだけど、元気があって可愛い奴だ。安心しろ。お前が不安に思っているような事は全部……、俺が追い払ってやるよ」 落ち着いた声音で優しく諭していく過程で、涙を浮かべている少年の視線を注がれ、またしてもぼろぼろと滴となって頬を伝い落ちていく。 何度掬っても追い付かねえなと笑いつつ、灰我の目尻に触れて優しく涙を拭いながら、唇を震わせている姿を見下ろす。 何事か紡ごうと唇を開くも、なかなか思うように表せないのか苦戦しており、涙に邪魔されて何にも言えない時間ばかりが過ぎていく。 けれども責めたりはせず、そうしている間にも少年へと優しく触れて、辛抱強く唇から継がれる時を待ち続ける。 自ら進んでこのような事に手を染める者ではないと分かりきっているから、か弱くも強く心の底で望んでいる事なんて最初から決まっている。 「うっ……く、俺……、こんなこと、したくないっ……。傷付けたくないよっ……。だって好きなのにっ……、おれ、兄ちゃんのこと好きだよ……!」 止めどなく涙を溢しながらも、真っ向から見上げて正直な気持ちを露わにし、とても嬉しい言葉を紡いでくれる。 「ごめんなさいっ……、ごめんなさっ……、う、くっ……。ずっと、謝りたかった……」 「もう……、あんな事しねえよな……?」 「う、うぅっ……、しない、しないよっ……。俺、もっと強くなるからっ……! 誰にも負けないくらい、兄ちゃんみたいに、強く……!」 「おう、期待してるぜ。初めからそうやって、素直に甘えてりゃいいんだよ。身の丈に合わねえことすんな、バカ」 堰を切って溢れている涙はなかなか止められず、尚も灰我のすべらかな頬を伝い落ちている。 けれどももう、先程までの悲しみに暮れているばかりの涙ではなく、心を開いて真っ向から想いを吐露してくれているのだ。 もう、大丈夫そうだ。 本来の輝きを取り戻している双眸を前に、笑みを浮かべながらすりと頬を撫で、残すところは後方にて黙って事の次第を眺めている輩のみだと思考を切り替えていく。 「俺のせいで、ごめんなさっ……。怪我なんて、させたくなかったのに……」 「気にすんな。これくらいなんでもねえよ。お前の気持ちを聞けて良かった」 「でもっ……」 「なんともねえって言ってんだろ。お前と違って鍛えてっから平気なんだよ。ガキのくせに余計な気ィ回してんじゃねえ」 自分のせいでと気に病んでいる少年を制し、沸々と笑みを湛えている青年への怒りを増幅させながら、だいぶ落ち着きを取り戻してきた灰我と相対する。 「お前は此処から離れろ。人気のない道は避けて帰れ」 「え……、でも」 「今後一切、誰にも手は出させねえよ。安心しろ。もう余計な事は考えなくていい」 何か言いたそうにしている灰我の頭を撫で、心配そうに見つめてくる視線を受け入れ、これからの事を前に少年を場から離れさせようとする。 容易く首を縦には振ってくれず、漸の怖さを味わっているからなのか不安そうにしており、我が身よりも此の身を案じている。 「あ、何して遊ぶのかちゃんと考えとけよ。此処で終わりにはしねえから。また、今度な……」 灰我を庇うように前へと出て、話し掛けながら少年を背後に立たせると、軽く肩を叩いて促す。 そうして視線を先へと巡らせ、黙してずっと事の経緯を眺めていた漸と目を合わし、灰我に向けていた柔らかな表情は消えていく。 少年は背中を見つめ、どうしても止められないと悟っても、なかなか踏ん切りがつかずに足を動かせないでいる。 それでも自分にはどうする事も出来ない現実を察しており、此処から立ち去る選択肢しか残されてはいない。 どうしてこんなにも尽くしてくれるのか分からず、優しさに甘えてばかりいる無力な自分が腹立たしいけれど、足を引っ張りたくないのならば取るべき道は一つしかない。

ともだちにシェアしよう!