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Digitalis

一歩、二歩と後退り、離れがたそうに視界へと収めながらも、言われた通りに少しずつ遠ざかっていく。 離れていく過程で、痛々しく血に塗れている手を見つめ、少年は辛そうに眉を寄せて涙ぐむ。 罪悪感に苛まれながらも、此処へととどまれば足手まといになるだけであり、我が身すらも満足に守れないような子供に出来ることなんて、万に一つも無い。 痛いくらいに分かっているからこそ、身を挺してまで庇おうとしてくれている背中を見つめ、言い付けを守って大人しく立ち去っていくしかないのである。 「ごめんなさい……」 言う度に涙が溢れ、少年のすべらかな肌を悲しみが伝い落ち、自分は何という事をしてしまったのだろうかと後悔に暮れている。 声は届いている、けれども決して振り向いてはくれない背を見つめ、覚束無いながらも徐々に少年の足が遠退いていく。 じりじりと後退し、その間に何度もごめんなさいとか細く繰り返され、出来ることならば今すぐにでも振り返って其の身を強く抱き締めてやりたい。 ぐ、と拳を握り締め、脆くも儚い少年を追い詰めたのであろう青年を睨め付け、互いに言葉を交わさぬまま時間だけが過ぎていく。 声を震わせ、未だ大粒の涙を溢しているかもしれず、本当は一人にしてしまうことに不安を感じている。 口では平気そうにしていながらも、先の一件のようにいつ何が起こるかなんて誰にも分からない。 警戒しなければならないのはマガツだけではなく、ヴェルフェが現れる可能性も否定は出来ず、どちらでもない新たな勢力が突如として降り立ち、少年を浚っても何ら不思議ではないのである。 だが、それでも銀髪の青年へと近付かせるよりは、群衆に紛れてしまうほうが余程安全であるはずなのだと言い聞かせ、次第に距離が開いていく気配を辿る。 僅かな歩みでもいい、悪しき青年から差し伸べられる魔の手から、確実に遠ざかっていく兆しを感じながら、微笑を湛えている銀髪の男と対峙する。 「くだらねえ茶番はもういいわけ……?」 頼り無げな足音が聞こえ、やがて決心して駆け出したのであろう気配が薄れていき、それでいいと声には出さず独白する。 そうして目前の男へと意識を注ぎ、程無くして先に口火を切ったのは漸であり、酷薄な笑顔に見合う言葉が紡がれている。 「どうしようもねえな、テメエは……」 憤怒を孕み、今にも殴り掛かってしまいそうな衝動を飼い慣らし、挑発に乗らぬよう淡々と口にする。 空気にひびが入るようで、一触即発に身を晒し、まやかしの笑みを浮かべている青年を見据え、多大なる緊張感が一帯を幾重にも取り巻いていく。 「とうとうそれ、取っちゃったんだ」 煌々と辺りを照らしていながらも、何処と無く薄暗く感じられる地下空間にて相対し、不意に漸の視線が逸らされる。 けれども笑みは絶えず、相変わらず楽しそうに口角を釣り上げ、すぐにも何処を見ているのかを察して眼光の鋭さが増す。 「どういう風の吹き回し……? あんなに必死に隠したがっていたくせに、今では堂々と晒しているなんて。なァ……、なんで?」 「テメエには関係ねえだろ」 「そんな事ねえだろ……? もう一度よく考えてみろよ。お前の手首に刻まれているその証は、一体誰が記してやったんだろうな……? テメエの無力さをこれ以上ない程に証明してくれてるよなァ。それをわざわざ人目に晒しているなんて、どういう了見なわけ……?」 目敏く手首の変化を見抜かれ、今では隠そうともせずに晒している姿が気になるようであり、わざとらしく責め立てる言葉を選んでは紡いでくる。 「テメエの忠実な犬が気付かねえわけねえよなァ。もしかして、ナキツ君にバレちゃったとか……? それならもう、隠している意味もないもんなァ」 「テメエとお喋りを楽しむつもりはねえんだよ」 「あれだけ煽ってやったんだ。何にもねえわけねえよな? なァ……、ナキツになんて言われた? お前はなんて答えたの。もしかしてもう、ヤッちゃってたりする……? 勿体振らないで教えてよ」 初めから聞く耳を持たず、どのような言葉を掛けたところで我が道を貫き、愉快そうに問い掛けてくる。 素直に反応を示そうものなら奴の思う壺であり、乗る気なんて更々無いのだけれども漸は話を続け、美しい白銀を揺らして近付いてくる。 「汚れているお前をアイツは受け入れてくれた……? 本当に許されていると思うのか? 紡がれた言葉は全て本心だとでも……? 取り繕うのは簡単だ、どうにでもなる。それでもお前は、信じるの……?」 この男の言葉は毒だ。 余韻を湛えて紡がれていく台詞は二の句を継がせず、どれだけうず高く壁を築いていても容易く隙を突かれてしまい、ぐらぐらと足元を揺さぶっては脆い部分を狙い撃ってくる。 此処にナキツは居らず、本人の意思が通らぬところで勝手な振る舞いをされているに過ぎず、鵜呑みにするような要素なんて何もないのだ。 「お前の事が好きで仕方がねえようだから、なんでも言うこと聞いてくれるんだろうなァ……。真宮はなんておねだりしたの? 俺とどっちが気持ち良かった……? お前は支配されるのが好きでたまらねえもんなァ」 好き勝手言いやがって、と胸糞悪いが下手なことも紡げず、よくもまあそんなにも次から次へと言葉が溢れてくるものだと忌々しく思う。 有無を言わさず従わせてしまうような魔力を帯び、言葉に気を取られて接近されていることを遅れて察し、間合いを詰められぬように後退して調整する。 抱え込む後ろめたさに訴え掛け、気持ちをぐらつかせようとする言葉の刃から身を守り、黒衣の青年と過ごす時間が刻一刻と刻まれていく。 「テメエには……、心ってもんがねえのか」 一定の距離を保ち、悪事に手を染めようとも平然としている青年を睨み、追い詰められた少年を脳裏へと過らせる。 何故なんとも思わない、どうしてあそこまで苦しませ、泣かせることが出来るのだと信じられない、理解なんて出来るはずもない。 「心……? そんなもの、あってどうするの? 何か変わるの……? 邪魔なだけだろ」

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