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Digitalis

どれほどの時が過ぎ去ったのだろう。 外はまだ暗く、心地好い静寂に包まれており、いつしか雨は止んでいる。 一室にて、淡い照明の下で眠りに就いている青年が居り、規則正しく寝息が聞こえている。 強き双眸は隠され、端正な顔立ちには涙の痕が残っており、今は疲れきって意識を手放している。 ベッドに横たわり、先程まで淫らに悶えていた姿が嘘であったかのように、今だけは何の迷いもない世界へといざなわれている。 そのような光景を、寝台の端に腰掛けながら眺めている者が居り、飽きもせずにじっと視線を注いでは時を過ごしている。 「……余計なこと言った」 誰に聞かせるでもなく、交わされた情事を思い浮かべながら独白し、言わなくてもいいことまで告げてしまった過去を少なからず悔いている。 表情は無く、程無くしてからそっと手を差し伸べ、感触を確かめるようにするりと指を滑らせる。 手首の痣へと触れ、あの夜に比べればだいぶ薄らいでいる其れを見つめ、黙ったまま親指ですりと擦る。 何を紡ぐこともなければ、何を想うこともないはずなのに、どうして組み敷いた証へと口付けをしてしまったのだろう。 明確な理由が見当たらず、このような輩に僅かでも調子を狂わされてしまったという事実がのし掛かり、言動を制御出来ない瞬間があったことに納得がいかないでいる。 一体何がそんなにも引っ掛かるのか分からず、元より興味なんてないのだから思考を奪われる必要すらない。 「真宮……、凌司……」 すぐにも忘れてしまえるはずなのに、覚えさせるように唇から吐露されていき、腕へと触れていた手が顔に移動していく。 目の前に居ることも忘れて、一番油断してはならない相手に全てを晒して、触れられている現実に気付かぬまま安らいでいる姿が映り込む。 「ん……」 何を思うでもなく頬を撫でると、彼の唇から微かに吐息が漏れていき、それでも目覚める気配はない。 「誰と勘違いしてんの」 心地好さそうに映り込む寝顔を前に、一体誰を思い描いて眠りに就いているのだろうかと思う。 別に誰でもいい、自分でないことは確かであるし、勝手に考えられていたところで迷惑なだけである。 名を明け渡したくらい、別段何の問題もない。 身体を重ねても、口付けをしても、縋らせるまでいじめぬいても、其処には何の意味もない。 まるで言い聞かせているかのような、静かなる囁きが胸の内にて繰り広げられており、頑なな心はもう随分と前からがんじがらめに閉ざされている。 すやすやと眠る顔を見つめ、自分はいつまでも何をやっているのだろうかと思いながらも、どうしてか触れる手を止められない。 「お前の何が違うって言うの……?」 返答は無いと分かりつつ、ふとした拍子に滑り落ちた言葉が宙を舞い、すぐにも静けさへと溶け込んでいく。 頬に触れていた手を、するりと移動させて首筋へ降り立ち、惜しげもなく晒されているそこを撫でる。 「ん……」 緩やかに、すべらかな肌を確かめるように指を遊ばせていると、ひくりと身を震わせてから吐息が漏らされる。 頬を撫でていた時よりも、幾分か熱っぽく溢されたように感じ、眠っていても過敏であることに変わりはないのだろうか。 好きにされているというのに、未だ起きる気配もなく無防備な姿を晒しており、時おり悩ましい吐息を聞かせては熟睡している。 微かに開かれている唇からは、愛撫を施されて感じている声が漏れていき、くすぐったそうにしながらも情欲が見え隠れしている。 「はぁ……、ん」 払い除けられることもないまま、首筋を弄ぶ手に翻弄されながらも彼は、微かに身動いでは艶やかな声を発している。 何がしたいのかも分からず、それでも意識を手放している傍らにて落ち着き、警戒を解いている姿を大人しく見下ろす。 出会ってからすでに幾度交わしたか分からないキスを、引き寄せられるように唇へと落としてから離れ、弱みへの悪戯もぴたりとやめる。 乱れていた呼吸は、すぐにも再び規則正しいものとなり、相変わらず隙を晒して寝入っている。 つい先程まで彼に触れていた手を見つめ、口元へと刻み付けられた傷痕へ指を滑らせて、ふいと彼から顔を背けて室内を見遣る。 そうしてゆっくりと瞬きをして、腹の底を言葉へと乗せることもなく唇を閉ざし、それでももう暫くは、彼との静寂を過ごしていくのであろう。 燻る感情には、何の答えも見出だせぬままに。

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