188 / 343
孤高のカタルシス
気紛れに手を差し伸べたところで、無力さを思い知らされて辟易とするだけであり、無駄な労力を費やしてしまうだけだ。
それならば初めから何もせず、いつかは終わるのであろう微睡みに佇んで、傍観者を気取っているほうがずっといい。
『行かないで。一人にしないで』
鬱陶しい子供の声が聞こえる。
華やかなのは見た目だけで、凍り付くような眼差しを注いでいた女はいつの間にか消え失せ、取り残された子供が涙を浮かべながら座り込んでいる。
みっともない真似をするなと、言い掛けたところで唇を閉ざし、見慣れた光景であるのに何をしようとしているのだろうかと思い直す。
一体どういうつもりなのか知らないが、何度見せたって同じことだ。
何を望んでいる、期待している、幾度となく裏切られてきたというのにまだ情けなく何かを願って、此の身へと訴え掛けているのだろうか。
「寒いな……」
ぽつり、と呟きながら視線を逸らし、寒々とした薄暗がりにて佇んで、何とはなしに左腕を擦る。
そうして思い出されるのは、二の腕に証を刻んでいた青年の姿であり、頭から離れない存在に不満ばかりが募っていく。
支配していたのは確かに自分であるのに、こうして夢にまで押し入ってくるのは何故であろう。
わざわざ振り払おうとしてまで、此の身から遠ざけようとしているのは一体何処の誰で、どのような存在であっただろう。
「何なの……? お前」
溜め息と共に腕を下ろし、足元を見つめながら不愉快そうに呟き、同列であるはずなのにどうしてか抜きん出ている姿がちらついて離れず、本当に鬱陶しくて仕方がない。
それなのに手が口元へと触れて、まるで感触を確かめるように指を滑らせており、傷が癒えるにはもう少し時間が掛かることであろう。
傷付けて、穢して、縋り付くまでいじめ抜いても、陥れたことよりも温もりを身体が覚えている。
注がれる双眸と、名を紡ぐ声と、指を絡ませて組み敷いた先から伝わってきた温かみが根深く残り、何故焼き付いて離れてくれないのかが分からない。
その他大勢であるのに、内の一人に過ぎないというのに彼だけが、それらとは一線を画する存在であるかのように、ずっと脳裏へとこびりついている。
『俺は……、知らないまま幸せでいるよりも、傷付いてでも全てが知りたい』
聞こえてはならない声にハッとして、いつの間にか誰かの足元が映り込んでいて、見覚えのある出で立ちから連想されていく人物が居ても、名を紡いでしまうことを酷く拒んでいる。
闇に抱かれていても、その者の姿ははっきりと見えており、何を言うこともなく目の前で佇んでいる。
俺は……、この男を知っている。
それでも名は紡がず、自分でも不思議なくらいに少しずつ視線を上げていき、其処に誰が居るのかを此の目で確かめようとする。
そんなことをしなくても、もうとっくに知っているんだろう……?
囁きを無視し、表情は無いままに其の身を視界へと収めていき、やがて戒めた手首を通り過ぎ、首筋から口元へ辿り着いたところで辺りが一変する。
「なんだ……?」
あれだけ無駄に垂れ流されていたいつかの光景がぷつりと途切れ、うるさく滑り込んできた声が唐突に潰える。
直前まで目の前に居たはずの姿は、きちんと顔を見れないままに跡形もなく消え去り、一度だけ聞こえた声が再度耳に入ってくることはない。
暗鬱とした闇だけが広がり、瞬きをすると弧を描くように周囲を囲まれており、慣れない展開に警戒しながら視線を巡らせる。
暗がりであるのに、青白い手足がやけに克明に映り込み、それなのに顔には靄がかかっているようで何者であるかは判別出来ない。
退路を絶ち、取り囲んでいる虚ろな群れが一斉に片腕を上げ、此の身を責めるように指をさしてくる。
一歩、また一歩と近付いて、薄気味悪い集団が徐々に迫り来る事態に嫌悪感を覚え、冷静に見渡しながらも妙案が思い浮かばずに立ち往生する。
戻れぬ場所へと引きずり込もうとしているのか、確実に距離を詰めてくる者共を前に、囲まれているというのにじりと後退りしてしまう。
瞬間、あまりにも現実味を帯びた感触が背後からずるりと湧いて、腕を回されていると察した頃には耳元へと唇を寄せられており、生暖かい吐息を感じて思考が遅れを取る。
『いつかお前を迎えに行くよ……。漸』
ぞくり、と悪寒が迸り、何ものをも呑み込む影に纏わりつかれて離れず、それなのに間近で感じられる息遣いはリアリティを帯びていて、夢であるはずなのに身の危険を狂おしい程に訴えている。
あまりにも穏やかで、優しげな声音であるというのに微塵も受け入れられず、呼吸が乱れて冷や汗が滲んでくる。
身の毛が弥立つ、逃げなければと思うのに身体が動かず、堰を切ったかのように雪崩れ込んでくる群れが我先にと手を伸ばし、狂気を孕みながら此の身へ触れようとしてくる。
やめろ、来るなと念じても止まずに押し寄せ、近付くほどに責めるような声が滑り込んできては途切れず、まるで呪詛の如く降りかかっては呑み込んでくる。
お前が悪いと、お前さえいなければと、消えてしまえと、様々な声が一斉に混ざり合って矢のように降り注いでは延々と、永遠と、行かないで一人にしないで忌々しいあの男に似てきたなにもわるいことしてないのにいい子にしてるよ消えろ可哀想に綺麗だよ死んで聞きたくないシキに似てきたどうして生きてるのお前さえいなければお前さえいなければお前さえいなければやめろ! 黙れ! 来るな……!
「はっ……!」
両目を見開き、すぐには事態を把握出来ないままに、どくどくと心臓が乱雑に打ち鳴らされている。
呼吸は乱れ、一点を見つめながら額には汗が浮かんでおり、暫くは何処にいるのかさえも分からなかった。
「はぁっ、は……、うっ……」
何も考えられず、ただ荒い呼吸を繰り返しながら呆然と見つめ、次第に自分が何者であるかを思い出せるようになっていく。
映り込んでいたのは天井で、照明によって明るいけれども、押し寄せてくる静けさに夜であろうことが分かってくる。
ともだちにシェアしよう!