202 / 343

安息のクレマチス

「なんか最近……、溜め息しかついてねえような気がする」 と言った矢先にまた溜め息を漏らし、何とはなしに単車を見つめながら立ち尽くしている。 時おり肌を撫でていく風が、いつもよりも若干寒く感じられるのはきっと、どんよりとした雲が空を覆っているからなのであろう。 その内に雨まで降り出しそうな気配だが、今日の天気予報では一体何と言っていただろうか。 全く記憶に無く、そもそも見ていたのかすら危ういところであり、我ながら集中力が欠落している。 もっとしっかりと地に足を付けなければと反省しても、気が付けば溜め息を漏らしながらぼんやりとし、何の実りもない時間ばかりが無情に過ぎ去っていく。 それもこれも全て、原因はとうに分かっている。 「全部あの男のせい、か……。あんな奴に俺は、こんなにも影響を受けちまってんのか……?」 思考を絡め取られているかのように、思うように考えがまとまらない。 思い出したくない事ばかりだ、アイツと顔を合わせる度に嫌でも刻み付けられて、離れていても脳裏へと過らせてしまう。 艶を孕み、黒光りしている車体を見下ろし、思い詰めたような表情をしている自分には気が付けない。 眉を(ひそ)め、追い払おうとも何度でも映り込む彼が消えず、暗鬱とした気持ちが日増しに膨れ上がっていく。 制御出来ず、一体何度好きにさせたら気が済むのかと自分を責めても、袋小路から出られる手立てにも成りはしない。 俺はいつまでも何をしている……? 何度目の問い掛けであろう、そうして幾度となく答えは返ってこず、空しさばかりが此の身を埋め尽くしては無力さを突き付ける。 「ハァ……、突っ立っててもしょうがねえな」 溜め息ばかりついていると、幸せが逃げていく。 そのような事を誰かが言っていた気がするも、何処で聞いていたのかも覚えてはいない。 不意に過ってしまったから、なんとなく思案を巡らせながら足を踏み出し、駐車場から少しずつ離れる。 彼以外を、考えている時間が欲しい。 どんな事でも構わない、だからこそこれまでであれば思い付きもしない事柄を、必要もないのにうだうだと考えてしまっている。 幸せとは何だろうか、少なくともこうして溜め息ばかり溢している状況では、なかなか紡げない言葉であろう。 出会わなければ、あの日々は幸せと呼べる日常であっただろうか。 アイツに壊されたのか? そんな風に考えてしまう時点で俺は……、アイツに勝てないと、屈していると認めているようなものじゃないのか……。 「悩むなんて俺らしくねえ……」 苛立ちを露わにして呟き、何度振り払っても纏わりついてくる情念に、いい加減頭がおかしくなりそうだ。 こんな事ではいけない、決して異変を悟られてはならないと、努めて平静を装おうと躍起になる。 これから向かおうとしているところは、あれからもう幾度となく訪れている病院であり、鳴瀬に余計な心配は掛けたくない。 余計な詮索をされたくないのが一番ではないのかと、卑しい自分が語り掛けてくるも無視し、帰るのであろう幾人かと擦れ違いながら出入口を目指していく。 今日は他に、誰か来ているだろうか。 ナキツや有仁は居らず、事前に誰かが訪れる予定も聞いてはいない為、先客がいるかもしれないし、鳴瀬だけかもしれない。 この場合、どっちのほうがいいんだろうか。 賑やかであれば、余計な事を考えずにいられる点では、より多くの者に囲まれているほうが気楽であろうか。 だが、騒ぎたい気分でもなければ心から笑えない。 有仁を思い出して、次いで灰我を過らせて、自分があの日に何をしていたかを巡らしそうになっては押さえ付け、足早に病室を目指して歩いていく。 「俺は……、何を」 今更悔やんでも、事はもう静まり返っている。 流されて、良いようにされて、果ては誰に縋っていた……? 無理矢理に靄をかけ、真っ向から思い返すことを拒絶したまま、誰でもいいから側に居て欲しくて歩みを進める。 一人になると、要らない事ばかり考えてしまう。 結局は誰かと居ても思考を囚われてしまうくせにと、楽しそうに内なる魔が囁いてくる。 あいつらとこれ以上、居てもいいのか……? いいわけがない、注がれる信頼を裏切りながらも平然と、彼等と顔を合わせている自分が酷く汚ならしく思える。 離れる……? 離れられるのか? 捨てるのか? そんなにも簡単に手放せるのか、こんなにも身勝手な都合で振り回すのか? 「離れてどうする。逃げるのか……?」 どうしたらいい、どうすれば良かった、願わずとも全てが裏目に出ていく。 逃げたくない、あんな奴に背を向けたくはない。 だが自分には、今後も彼等と一緒に居られる資格なんてとせめぎ合い、息の根なんて止まってしまえばいいのにと呪わしい言葉が時おり過る。 あらゆる事象が記憶にとどまらず、視界に収まってはいてもなんにも見えなくて、通い慣れた行程をただ黙々とこなしていく。 階段を上がり、中庭に面した廊下を歩み、誰かと擦れ違っても過ぎ去った頃には忘れている。 外が薄暗いからか、それとも気分によるものか、院内の雰囲気が何処と無く陰気に思えてしまう。 相変わらず清潔感に包まれ、隅々まで清掃が行き渡り、消毒の匂いが鼻腔へとこびりつく。 今日はやめておいたほうがいいのでは、と内心で自分を止めてしまうも、そうして一体いつになったら訪れるのだろう。 ずるずると引き摺られるように、いつまでも顔を合わせられなくなってしまう気がする。 誰にも合わせる顔なんてない、あの男を頂から引き摺り下ろさない限りいつまでも、いつまでもいつまでも囚われて離れられない。 「くっ……、しっかりしろよ」 眉を寄せて独白し、このような状態で会うべきではないと思っても、誰かを求めて足は止まらない。 縺れていく思考が、懸命に奮い立たせようとする意思すら剥奪し、地へ落とさんとしてくる。 疲労は募るばかりで、それなのにどうしても、あの男を切り離せないでいる。 掛けられた言葉が巡る、抉る、何処までも追い詰めていく。 この手で守れるものなんて何もないと、お前は無力だと。

ともだちにシェアしよう!