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安息のクレマチス
「俺は……」
逃れるように視線を逸らし、先程までと何ら変わらぬ景色を見つめながら、自らへと静かに問い質す。
そうして決まって現れるのは、いつの頃からかもう限られてしまっている。
何の前触れもなく目の前に現れて、勝手に裏切られた気分になって、未だ白黒つけられないまま共に過ごす時間ばかりが増え、到底受け入れられないはずの行為を繰り返している。
屈辱に塗れ、完膚無きまでに平伏させ、全てを支配してやがて自滅へ追い込もうとしているのだろうか。
控えめに交わされている談笑が、時おり店内で緩やかに流れている音楽と混ざり合い、ふとした拍子に鼓膜へと滑り込んでくる。
カチャ、と食器の触れ合う音がして、視線は外へと向けたまま根源は確かめず、何処か遠くに聞きながら思案を巡らせては眉を顰めている。
一番に許せない事は何だ、知りたい事とは何だ。
鳴瀬を傷付け、陥れて、嘘をついて、平然と騙して、仲間を危機へと晒して、そうしてあの男が此の身へしてきた事は、と考えて耐えられずに待ったが入り、その先は思い出したくないと思考が拒んでいる。
逃げるつもりはないと、わざわざ言葉にしている時点で身構え、まるで恐れを抱いているようだ。
今までに会ったことがない、あそこまで執拗で、それでいて曖昧な悪意をぶつけてくるような存在を他には知らない。
絡んでくる輩は、これまでにも大勢居り、誰もが明確な理由を携えて暴力へと訴えてきた。
売られた喧嘩は喜んで買い、もれなく返り討ちにしてきた。
自分は強いと、そう思ってきた。
全てを守れると、揺るぎない自信を持って、何ものにも臆する事など無いと思っていた。
それが今ではどうだ、たった一人に対して俺は、頭を悩ませるばかりで何も出来ないでいるのか……?
積み重ねてきた事が通用しない、あんな奴の対処法なんて知らない。
「俺がいい奴で良かったよなァ、お前」
「どういう意味だ」
「テメエがいい奴なのはよく分かったけどよォ、もう少し危機感持ったほうがいいんじゃねえの? まあ散々平和ボケして馴れ合ってきたんだろうから仕方ねえけどよ、この状況でテメエ隙見せ過ぎだわ。お偉いさんは色々考える事があるんだろうけど、そんなんじゃいつか呑まれるぞ。人がいいってのはご立派な事だが、ちったァ疑えよ。ま、何が起きても対処出来るっつう自信の表れかもしんねえけどなァ~」
一言一句が重く圧し掛かり、心中を見透かされているかのような言葉に、咄嗟に言い返す事が出来ずに口を噤む。
「俺は楽しくなりゃなんでもいい。テメエは喧嘩が強ェらしいから、その内手合わせ願いてえところだ。今のまんまじゃ張り合い無さ過ぎっからもうちょいどうにかしろよな。て、なんか喋り過ぎちまったな。調子狂うぜ」
がしがしと頭を掻き混ぜ、辺りへ視線を注ぎながら食を進め、意外と鋭く痛いところを突いてくる。
言われてみれば確かに、自分には危機感が足りないのかもしれない。
無理矢理に連れ出してきた青年に言われるのはなんだかおかしな気もするが、間違った事は紡いでいないと感じる。
力を過信し、驕りが招いた結果だと、負の螺旋へ陥れようと囁いてくる。
疑うことも必要だけれど、だが相手に心を許してはならないなんて、それは何だか悲しい。
極端に考え過ぎかもしれないけれど、人を信じられず、心を開けないという事は、とても切ない事のように思えてくる。
どうしてそういう風に考えてしまうのか分からない、何故あの男と関連付けようとしているのかも分からない。
想いが無いのなら、いたぶる気持ちしかないのであれば、こっぴどく痛め付ければそれで済むはずなのに、ふとした瞬間に差し伸べてくる気紛れな優しさに阻まれ、漸という人間を測りかねている。
憎しみで片付けるのは容易く、それだけでいいのなら気持ちももっと楽でいられる。
紡がれる言葉の全てを、何処までが本心で何処までが嘘で、偽りだらけかもしれない台詞の端々からまだ理解しようと足掻いている自分が居るとでもいうのだろうか。
「無理矢理こんな所まで馬鹿力で引き摺ってきて、大人しく付き合ってやってんのにひでぇ言い草だな。断っても絶対に引かねえだろテメエなんか」
「ハハッ、まあな! サクッと棚に上げて言ってやったぜ!」
「なんでそこまで言われなきゃならねえんだよって気もするが、お前の言うことも尤もだ。あからさまに怪しいテメエを信じるなんてまあ、ねえけどな」
「おいおい、俺は信じろよなァッ~!」
「お前が特にねえよ。でも……、お前のお陰でちょっとは頭冷やせたかもな」
「良かったじゃねえか! 報酬は殴り合いでいいぜ~!」
「気が向いたら相手してやってもいいぜ。まだ俺の事をよく分かってねえようだから、挑んだ事を死ぬほど後悔させてやるよ」
「そりゃ楽しみだぜ。まあ精々足掻いてくれよ。簡単に潰れちまうとつまんねえからなァ~」
好戦的な笑みを浮かべている青年に釣られ、眼差しが鋭く戦意を宿していく。
いつの間にか、一面を覆い尽くさんばかりの料理は消え失せており、すっかり彼の中へと吸収されてしまったようである。
やがて血となり肉となるのだろうが、食欲旺盛にも程がある。
それなのに青年は何事も無かったかのように笑っており、本能の赴くままに生きていそうな姿はまるで獣のようだ。
その割には知性も持っている為に、全く面倒臭い相手である。
「例えお前が敵であったとして、好きになんかさせねえから安心しろ」
「お、ぐるぐる悩むのはやめたのかよ」
「うるせえよ。テメエが何者かなんてどうでもいい。俺に挑むつもりなら相応の覚悟を持てよ。テメエの思い通りになんかならねえよ」
そう言ってふっと微笑む。
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