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安息のクレマチス
ぽつ、と鼻先を何かが掠め、雨粒と理解するまで然程時間は掛からなかった。
とうとう堪えきれず、鈍色の雲から滴が零れ落ちてしまい、今度は左手へと微かに触れてくる。
風に吹かれ、斜に舞い降りていく雨が、細やかな砂利に塗れた路面を濡らす。
ぽつり、ぽつりと少しずつ降り注ぎ、地面を斑に染めていきながらやがて、濡れた土の匂いが鼻腔をくすぐっていく。
「降ってきやがった」
雨脚が強まる前に、さっさと屋内へ逃げ込んでしまおうと足を速め、目と鼻の先である病院を目指す。
雨に降られようが関係のない自動車は、相変わらず悠々自適に大通りを行き交っており、日中ではあれども薄暗いが為に、ヘッドライトを点灯させながら走っている姿が目立つ。
横断歩道に差し掛かり、信号待ちをしながら空を見上げると、一筋の光すら見えない厚い雲で覆われており、零れ落ちた滴が時おり顔へと当たる。
大きな雨粒であった為に、額へ到達してから頬に滴っていき、手で拭いながら視線を前へと戻す。
そうして暫しの時を佇んでいると、後ろから震えを感じて手を伸ばし、ジーンズの物入れから携帯電話を取り出して指を滑らせ、通話にしてから耳へ当てるとすぐにも賑やかな声が聞こえてくる。
『真宮さ~ん! ちっす! 有仁ッス!』
「おう、どうした」
『今って何処すか? お見舞いはもう終わった感じすか~?』
「いや、これから行くところだ。予定がちょっと狂ってよ……」
『ほうほう、そうなんすか! これから病院なんすね!』
「そうだけど……、なんだよ。お前もこっちに来るのか?」
『いんや~! 俺は行かないッス! 俺はね!』
「なんだよ。妙に含んだ言い方するな」
有仁からの電話であり、話している途中で歩行者信号が青に変わり、歩きながら会話を続けていく。
『実は今、お客さんが来てるんすよね!』
「客? 誰だよ」
『言いたいけど内緒ッス! でも言いたい! あ、ダメすか! うん! やっぱりダメ!!』
「なんだよ、それ。気になんだろ、誰だよ」
『まあまあまあ! これからそっち行くって言ってるんで、じきに分かるッスよ~! 覚悟を決めておいたほうがいいッス!!』
「ハァ? 覚悟って……、ますます意味が分かんねえよ」
小雨に降られながら歩道を歩き、裏手から回って正面玄関を目指していく。
どうやら誰かが訪ねて来ているらしく、これからわざわざ此処へと向かうようであり、歩きながら思考を巡らせるもパッと思い浮かぶ人物は居ない。
有仁の様子から考えて、親しい者が現れたのだろうと思うので、ヴェルフェの可能性は無い。
声を弾ませ、嬉しそうにしている有仁の傍らには、一体誰が居るというのだろうか。
『俺も真宮さんの反応見たいけど、お邪魔虫にならないように今日は遠慮しとくッス!』
「誰がいんだよ、このままじゃ気になって鳴瀬の見舞いどころじゃねえだろ」
『ダメッス! もやもやハラハラどきどきしながら鳴瀬さんを見舞えばいいじゃないすか~! 期待してくれていいッスよ! え? やだなあ、いいんすよ! 全然ハードル上がってないッス!』
「誰だ……?」
時おり有仁は、傍らにて過ごしているのだろう誰かと話しており、楽しそうな雰囲気が伝わってくる。
首を傾げつつ歩いていると、いつの間にか目当ての出入り口へと辿り着いてしまい、中には入らずに屋根のあるところで佇む。
声でも聞こえないかと耳を済ますも、有仁の声と、外に居るのであろう周囲の喧騒に阻まれてしまい、訪問者の言葉を耳にするのは困難であった。
目の前を行き交う人々から離れ、壁に背を預けつつ端で立ち尽くし、一体誰がいるのだろうかと気になって仕方がない。
『これから向かうらしいんで、此処からだと……、30分位で着けるんじゃないすかね~!』
「何処かで待ってたほうがいいのか」
『ん~と、何処かで待ってたほうがいいすかって言ってるんすけど……。連絡入れるそうッスよ~!』
「連絡……。番号を知ってる誰かか、てますます分かんねえよ」
容易く連絡を取れるのなら、直接電話なりしてくればいいだけのような気がするも、どうしてか有仁を介して此方へ向かおうとしている。
電話帳に登録されている誰かのようだが、一人や二人では無いので確信を持って予想する事が出来ず、スッキリしないまま訪れる時を待たねばならない。
じきに答えは明かされるようなので、大人しく時が満ちるのを待っていればいいのだが、一体誰が病院まで会いに来てくれると言うのだろうか。
雨脚が激しく、地面を叩くように強さを増していき、もう少し遅ければ今頃びしょ濡れになっていた。
通り過ぎていく風が、より一層寒く感じられて身震いし、そろそろ切り上げて中へと入ってしまいたい。
「何処の誰だか知らねえけど、まずは鳴瀬の見舞いに行くからな」
『了解ッス! まあ見舞うには十分な時間ッスよね~! 首洗って待ってるッスよ!』
「なんでお前が偉そうにしてんだよ」
『ふっふっふ! 先に会っちゃって申し訳ないッス! ちゃ~んと周りに配慮して感動の再会するんすよ~!? 絶対辺り見えなくなっちゃうからね!』
「今此処に居たらお前を可愛がってやるのに」
『それ完全に俺がしめられてる展開すよね! やだ~行かないッス! つうわけで、まあまあゆっくり鳴瀬さんと話してきて下さい!』
「ああ……、そうする」
『んじゃ~、今から向かうそうなんでよろしくッス~!』
靄は晴れないものの、通話を切ってから携帯電話を元の位置へと戻し、とりあえずは中に入ろうと足を踏み出す。
共通して見知っている人物を思い浮かべても、次から次へと現れるのできりがない。
鳴瀬と会ってもずっと考えてしまいそうだが、通い慣れた院内を歩みつつ病室を目指し、程無くして訪れるであろう時を大人しく待っているしかないようだ。
それにしても随分と嬉しそうにしていたが、久しぶりに会う人物なのだろうか。
先程と同じ行程を辿り、患者が寝起きしている棟へと近付いていくにつれ、辺りを静寂が包み込んでいく。
暖かいが、空気が篭っていて少々息苦しく、何とも言えない独特な雰囲気が漂っているように感じる。
足を止める事はなく、今度こそ確実に鳴瀬の元へと距離を詰めており、流石にもう行く手を阻んでくる輩は居ないようだ。
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