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安息のクレマチス

確かさっきは、この辺で捕まったんだよな……。 ようやく戻ってきて、思えば本当に後一歩のところで浚われてしまい、此処へと至るまでに随分と時間を要してしまった。 歩調を一定に、我が身から発せられる足音を聞きながら、黙って角を曲がる。 すると、通路を挟んで両側に引き戸が立ち並び、必ず傍らの壁には名札が収められている。 それぞれに事情を抱え、症状から身の回りにおける環境まで全く異なる人物達が、静寂と戯れながら病室で過ごしている。 幾つもの部屋を通り過ぎ、時おり誰かと擦れ違いながら歩みを進め、和気藹々とした談笑が何処からともなく聞こえてくる。 見知らぬ名前を視界へと収めていき、やがて立ち止まって向きを変えると、目の前には一枚の戸が立ちはだかっている。 鳴瀬 昂と記されており、中からは何の物音もせず、他に誰かがいるような気配は感じられない。 引き手へと触れ、そっと開けてみるとやはり静けさが漂っており、どうやら今のところ誰も来ていないようである。 「よォ、鳴瀬」 入室し、戸を閉めてから歩き出し、間仕切りの向こう側へと顔を出しながら声を掛けるも、すぐさま唇を閉ざしてしまう。 視界には、布団を被ってすやすやと眠っている鳴瀬が映り込み、規則正しく寝息を立てている。 訪れている者はいなかったが、まさか寝ているとは予想外であり、話し相手が居らず少々がっかりする。 微かに溜め息が漏れるも、起こしてしまうのは申し訳ないので素直に受け入れ、とりあえずはせっかく来たので近付いていく。 窓側へと回り込み、見慣れた丸椅子に音を立てないよう腰掛けて、目蓋を下ろしている鳴瀬を眺める。 「まさか昼寝中とはな……。ホント、調子狂っちまう日だぜ」 とは言いながらも微笑み、心地良さそうに眠りを楽しんでいる青年を見守る。 完治にはまだ手が届かないけれど、此処へ担ぎ込まれたばかりの頃に比べれば遥かに良く、顔の判別も容易く出来るまでに回復している。 起こさないように気を遣いながら、そっと手を伸ばして額へと触れ、顔が隠れてしまっているので指で前髪を払い除けていく。 「ん……」 漏れた声に一瞬動きを止めるも、起きる様子は無く夢の中をさ迷っているようであり、気持ち良さそうに熟睡している様が窺える。 心配は尽きないけれど、目の前で無防備に眠りに就ける程度には、彼には平穏な日常が当たり前になっている。 このまま何も無ければいい、いや、何も起こらないようにしなければと考え、微睡んでいる鳴瀬へと触れる。 「寝ててくれて、良かったかもな……」 二人きりではいずれ、どれだけ会話が弾もうともふとした拍子に静寂が訪れ、次いで言うべき台詞を見失ってしまいそうだ。 途切れることで、言わないようにしていた事柄を持ち出されてしまいそうで、情けないがそれを何処かで恐れている自分がいる。 ある程度内容を予想出来てしまうだけに、尚のこと鳴瀬との会話が途絶えてしまう状況を警戒している。 「怪我が治ったら……、お前はどうするんだ。じっとしていてほしいけど、会いに行っちまうのかな……」 寝ているのを良い事に、じっと鳴瀬を見つめながら問い掛けるも、当たり前に返ってくる言葉は無い。 関わらないでほしいと思っているが、彼の性格ではじっと立ち止まってなんていられず、話をしに行ってしまうかもしれない。 もう、あの男とは顔を合わせないでほしいと、鳴瀬に限らず考えてしまう。 接点を持つ程に、暴かれたくない秘密を誰かが知ってしまいそうで、ある時から突然に態度を変えられてしまいそうで、自業自得であるのに居場所を手離せない自分がいる。 どうしてこうなってしまったのか、考えても全く分からない。 気が付いた時にはもう、何もかもが手遅れな状況へと叩き落とされていて、あの男がいつまでも脳裏へこびりついている。 鳴瀬へと触れていた手を離し、静けさにいだかれながら視線をさ迷わせ、どうしようもない心境から少しでも逃れようとする。 雨が降っている為に、室内は薄暗く感じられ、主が眠っている事もあって余計に寒々しい空気を帯びている。 じっとしていたらまた、引き摺り込まれてしまいそうだ。 そう思うと同時に立ち上がり、音を立てないように注意しながら少しずつ離れ、未だ目覚める気配のない青年を見つめる。 そうしてふいと視線を逸らし、抱える靄をいつまでも晴らせないまま複雑な表情を浮かべ、足音を忍ばせながら静かに病室を後にしていく。 そういえば、じきに誰かが此処へやって来ると言っていた。 早くても30分は掛かりそうだが、鳴瀬が眠っていた事もあって時間にはまだ随分と余裕があり、何か飲みながら休憩でもしていようかと思う。 寂静へと晒されているよりは、不特定多数が行き交う場所にて過ごしているほうが、まだ幾分か楽でいられるような気がする。 決して接する事はないけれど、すぐ其処に誰かが居ると感じられる状況は、疲弊している心を随分と安心させてくれる。 来た道を戻りながら、いずれ入ってくるのであろう連絡を待ち、一息つける場所を求めて歩いていく。 意識して、いちいち振り払わなければいけないくらいに、たった一人に思考を奪われてしまうなんて情けない。 分かっていると自覚しても、気が付けばすでに足を取られていて、一体何度繰り返せば脱する事が出来るのだろうか。 離れられるのだろうか、元の日常へといつかは戻れるのだろうか、本当に心の底からそれを望んでいるのだろうか。 あれだけ縋り付いておいて、と思考を巡らせたところで拒絶し、辺りを見つめながら歩みを進めていく。 足早に、人の居る場所を求めて放浪し、少しでも落ち着ける一時を渇望していた。

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