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安息のクレマチス
柔らかに微笑まれ、穏やかに声を掛けられるだけでじんわりと、疲弊していた心が解きほぐされていく。
ふわりと頭を撫でられ、気恥ずかしくて視線を逸らしてしまうも、刻也はずっといとおしそうに見つめており、感触を確かめるように髪を弄んでいる。
微かに鼻腔をくすぐる香りは、あの頃から何も変わらずに安息をもたらし、刻也が側に居てくれているという現実をより強く実感させてくれる。
「大まかにだが話は聞いてる。大変だったみたいだな」
遠慮がちに視線を向けると、真っ直ぐに注がれている双眸とかち合い、心の底から身を案じてくれている様子が窺える。
病院に居ると知って、きっと有仁から状況を聞き出しているのだろうが、何処まで現状を辿れているのかは分からない。
此の身だけが把握している事柄も多分に含んでいる為、気を付けて言葉を選ばなければ自ら破滅を招いてしまいそうで恐ろしい。
誰にも知られたくない秘密を大いに抱えているけれど、中でも突き抜けて刻也にだけは悟られたくなく、例え卑怯と罵られようが後ろ指をさされようが、包み隠さず明かす気なんて更々無いのである。
言えるわけがない、晒す勇気なんて毛頭無かった。
「今は多少落ち着いていると聞いたが、本当か?」
「はい。鳴瀬の怪我も大分良くなっているので、当初に比べれば落ち着いていると思います」
「鳴瀬……、此処に入院している奴か」
「はい」
「話は出来たか……?」
「それが……、話そうと思ったらぐっすり眠ってたんで、すごすごと退散して此処に居たんすよ」
「ははっ、そうだったのか。そりゃ残念だったな」
「まあ、話せなかったのは残念すけど、元気そうな姿も見れたし……、それに刻也さんに会えて嬉しいから、今日はすごくいい日なんです」
照れ臭そうに人差し指で顎を掻きつつ、頬を火照らせて視線を逸らすと、刻也は一層笑みを深めてくる。
「そうか。そんな風に言ってもらえるなんて嬉しいぜ。俺もお前に会えていい日だよ、凌司」
「刻也さん……、嬉しいです」
「ったく……、ホントお前って可愛い奴」
視線が合うも、すぐにまた恥ずかしくなって逸らしてしまい、そうしている間にも温もりに頭を撫でられる。
彼がまだ群れを統べていた頃も、こうしてよく頭を撫でてくれていた。
どれだけ疲弊していても、どれだけ不安に駆られ、悲しみに暮れていてもいつだってその手が心身を平穏へと導いてくれていた。
それは今でも変わらず、あれから何年経とうとも安寧をもたらしてくれる存在であり、無条件で彼を受け入れてしまう程に心を許しきっている。
「せっかく久しぶりに会えたことだし、このままお別れするのは寂しいから、今夜は飯でも食いに行かねえか? まだ大分時間あるけどな」
「え……、いいんですか?」
「な~に言ってんだよ。もちろん、いいに決まってるだろ。随分とお前に会えなかった分、空白の時間をたっぷりと埋めてもらわねえとな! 今夜は帰さねえぞ~! なんてな」
そう言って笑う刻也に釣られ、まだ一緒に居られる事が嬉しくてはにかむ。
「先に済ませておきたい用事があるから、一旦此処でお別れな。俺と離れている間は寂しいだろうけど、またすぐに会えるんだから泣くなよ。凌司」
「そんな簡単に泣いたりなんてしませんよ。これまでにどれだけ離れ離れになってたと思うんすか」
「あ、墓穴掘っちまったか? まあまあ、そう拗ねるなよ。寂しい思いをさせた分の穴埋めはちゃんとするから、な?」
「それだけじゃ足りないです……」
「お、言ってくれるな~! お兄さんに任せておけ! 穴埋めだけで済むと思ったら大間違いだぜ? 鬱陶しいって位に可愛がってやるからな、凌司!」
「刻也さんを鬱陶しいなんて思うわけないじゃないすか……、分かってないんだから」
わしゃわしゃと髪を撫でられ、陽射しのように暖かな雰囲気によって包まれ、心身共に癒されていく。
まだ一緒に居られる、そう思うだけで胸が一杯になり、此処で別れても幸せを引き摺っていられる。
久方ぶりに再会し、終わらずにまだ次なる舞台が残されており、数時間も経てばすぐに訪れてくれると思うと、とても嬉しくて充たされていく。
こんな風に楽しみ、負の連鎖から解き放たれている時なんて、一体いつ以来であろうか。
思えば毎日のように何かしらを抱え、心配していなければ気が済まないというくらいに、頭を悩ませる日々を送ってきた。
それだけに現在の状況になかなか馴染めず、いつかはこれが当たり前であったというのに、あまりにも離れ過ぎていた為に恐る恐る手を差し伸べながら、何のしがらみもない事を確かめている。
「また後でな。それまでいい子にしてろよ、凌司」
「楽しみにしてます」
「おう! 俺も楽しみにしてる。例え悪い子になってても、それはそれで燃え上がっちゃうからいいぜ~!」
「どっちなんですか、それ」
「ん~? どんな凌司でも受け入れられるぜ、てこと。じゃ、また後でな! 今度はちゃんと連絡するから出ろよ」
ひらひらと手を振り、暫しの別れを惜しみながらも刻也が離れ、後退する。
刻也からの連絡に出ないわけがないのだが、それは彼も十分に分かっているであろうし、何も言わずに去っていく彼を見つめる。
なんだかとても、今日という日は慌ただしい。
しかし悪くは感じられず、寧ろ刻也に会えた今となっては他の何とも比較出来ない程に良い日である。
ぼんやりと後ろ姿を見つめ、まだ何処と無く夢心地でいるのだけれど、つい先程まで確かに此処で顔を合わせて話をしていた。
次第に去り行く彼の背中が小さくなり、惚けるようにじっと見送りながら暫くは我に返れず、立ち尽くしたまま頭の中を整理するのに忙しい。
けれどもまた、すぐにも会えるかと思うと心が暖まり、自然と唇には穏やかな笑みが乗せられていく。
現状は何も変わらないはずなのに、スッと肩の荷が下りたようで安らいでおり、刻也という存在が如何に大きいかを知る。
それこそ彼が求めるならば何であっても応えたい位に、己の内を占めている割合は他の何ものをも凌駕しており、単純に好きという言葉では最早片付けられない。
そのような存在である刻也と、久しぶりにゆっくりと過ごせるのかと思うと素直に嬉しくて、去り行く姿をいつまでも見つめながら物思いに耽っていた。
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