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安息のクレマチス

目を細め、いつまでも色鮮やかに残っている過去を思い浮かべ、自然と穏やかな笑みが零れていく。 優しく頭を撫でられ、感触を確かめるように髪を弄ばれ、温もりに傷付いた心が少しずつ癒される。 視線の先には、つい今しがたまで腰掛けていた席と、テーブルに敷き詰められている料理が映り込む。 汗を掻いているジョッキには、冷えた麦酒がまだ半分程残っており、持って移動すれば良かったなと今更ながらにぼんやり思う。 机上には、食欲をそそられる品々を片っ端に挙げていった結果が並んでおり、互いの好みが混ざり合ってあまりに統一感が無い。 だからと言って気にする事もなく、好き嫌いが殆ど無い身にはどれも美味しく感じられ、置かれている料理はまんべんなく口にしている。 だし巻き卵に、牛すじの煮込み、あじのたたき、串カツ、酢の物に水菜のサラダ、加えて手羽先と、端から順に挙げていけばきりがなく、それでもより和やかな一時をもたらしてくれている。 「刻也さん」 「ん……?」 談笑で埋め尽くされ、店内から賑わいが消えることは無く、何処も彼処も活気に満ち溢れている。 どのような会話をしているのかは分からないけれど、一様に顔を綻ばせているのであろう空気に包まれ、此処も例に漏れず安らいだ一時を過ごしている。 傍らへと呼び掛ければ、程無くして柔らかに応えられ、どんな時でも両手を広げて受け入れてくれる姿勢につい甘えてしまう。 ずっと変わらず、いつでも気に掛けてくれる静やかな存在に、ざわつき、波打っていた心がいとも容易く平穏を取り戻していく。 「ありがとうございます……」 「え? な~に言ってんだよ。俺は何にもしてねえだろ」 「一緒に居てくれるだけで、嬉しいんです……。俺にとって、刻也さんはいつまでも特別だから。わざわざ会いに来てくれて、こうして飯食って喋って、ホント……、俺今幸せです」 「お前な……、そういう事ほいほい言っちゃ駄目だぞ。凌司君てば天然物のたらしなんだから」 「なんで……? だって俺、刻也さんの事が好きだし、思ってる事ちゃんと伝えたいし……、俺の事もっと知ってほしい」 「よく分かってるつもりだけどな、お前の事は。ずっと放っておけない、手の掛かる弟だよ。お前は」 「ずっと頼りにしてすみません……。いい加減離れなきゃいけないのに、俺……」 「どうして離れる必要があるんだよ。頼りにしてもらえるなんて嬉しい事だ、そんな寂しいこと言うなよ。な……? 凌司。特別扱いも嬉しいしなあ、特権特権」 「はい、刻也さん……。刻也さんが居てくれないと、困ります……」 「よしよし、いい子いい子。普段は皆の良きお兄さんなんだから、今日くらいはたっぷり甘えちゃいなさい。その為に来たんだからな」 わしゃわしゃと髪を混ぜられ、ぐいと引き寄せられて額が触れ合い、間近で刻也の温もりを感じる。 肩の力が抜け、優しげな声音が雨霰と降り注ぎ、砂糖菓子のように甘く蕩かしながら此の身を包み込んでくれる。 酒気を帯び、目眩がしてしまいそうなくらいに甘やかされ、安心感を与えてくれる青年に抵抗も無くすり寄って惚け、頬には赤みが差している。 「俺……、刻也さんに見合う男になれてますか」 「当たり前だろ。お前はいい男だよ、凌司」 「刻也さんは、優しい……。アイツとは大違いだ……」 「ん? 何か言ったか」 「俺……、もうどうしたらいいのか分からなくて……、あいつらとどう向き合ってきたのか見失って、俺に出来る事なんか何もないんじゃないかって……、すごく不安で……」 「凌司……?」 「俺がしてきた事は何だったんだろう。積み上げてきた事が通用しない……。アイツには何の枷にもならない。全てを嘲笑われているようで、否定されてるような気がしてきて、俺……、俺は……」 堰を切ったかのように、一度唇から滑り落ちてしまえば止められず、苛んで仕方がない想いが吐き出されていく。 明かそうなんて、思っていなかったのに。 甘えていくうちに、抱えている不安を、心情を分かってもらいたいあまりに暴走してしまい、ただ溢れる言葉を口にしていく。 自分が何を言っているのか意識もせず、押し潰されそうな胸の内を暴いていき、惜し気もなく晒して目の前の男へと縋り付く。 名を紡がれても耳に入らず、いつしかまた悪しき青年の影ばかりが脳裏を過っていき、思考を囚われている様に刻也が眉を顰める。 少し離れている間に一体何があったのかと、刻也は耳を傾けながらも思考を巡らせ、まだ周りが知らない何かが隠されているのではないかと推測する。 そのような変化には気付かずに、時おり思い悩むように言葉を失いながらも羅列し、止めようという気配は今のところ無い。 静かに聞いてくれているのを良い事に、髪へと触れられている手に安らいで、酔った勢いも借りてここぞとばかりに吐露されていく。 自分でも気持ちを整理したいのか、一言告げる度に情景が思い出されていき、辛そうに眉を寄せながらも刻也が居てくれている事が力になり、自らに向き合おうと足掻いている。 「随分と憔悴してるな。お前にしては珍しい……。ここまで影響されるなんて、今までに無かった事だ。そりゃ調子も狂わされるよな、お前は自覚していないんだろうけど……。だからこそ厄介な相手だな」 「自覚……?」 「ほんの少し目を離している隙に、面倒な奴に目を付けられたな。有仁から聞いていた状況よりも、よっぽど事態が深刻そうだ」 「あ……、これは、その、違うんです……」 「何が違うんだ。ヴェルフェと揉めて、そのアタマに悩まされているんだろ」 冷静に言葉を返され、とりとめの無い話であったにもかかわらず、刻也は自分なりに整理しながら聞いていたようで、ハッと今更我に返って無かったことにしても、そう簡単には流してくれそうにない。 有仁から聞いていた状況がどのような内容であったかは分からないにしても、異なるからこそより気に掛けられており、自ら疑惑の種を蒔いたようなものだと愚かな言動を後悔する。 優しさに包まれたいあまりに、後先考えずに敵対者を話題に挙げてしまい、関係を聞かれでもしたら刻也を相手に欺ける自信なんてない。

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