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安息のクレマチス

思わず身を引こうとすると、差し伸べられた手に左腕を掴まれてしまい、逃れようともこれ以上後退する事は叶わない。 暫しの静寂が訪れ、視線を逸らせず、身動き一つすら取れずに時間だけが刻々と過ぎていく。 目の前で、真剣な表情で真っ直ぐに見つめられて、茶化す事も出来ずにいよいよ退路を絶たれてしまう。 相変わらず賑やかであるのに、今だけは何にも耳に入らなくなっており、戸惑いを加速させていく静けさばかりが漂っている。 冷や汗が滲み、表情が強ばり、何か言わなければいけないのに思い浮かばなくて、疑惑の種ばかりを飽きもせずに蒔いている。 口を閉ざし、此の身を映り込ませている青年は今、一体何を考えている事であろう。 気になるけれど、恐ろしくてとても聞けず、いつまでも打破出来ない状況へと溺れていき、眉を寄せて叱られた子犬のように悄気ている。 「聞いてもいいか……? 嫌なら答えなくていい」 優しく諭すように腕を擦られ、紡がれても視線をやっとの思いで逸らすくらいしか出来ず、何も聞かないで欲しいとは言えない。 答えなくていいと言われても、彼に聞かれたら嫌でも明かしてしまいそうな自分が居り、ずっと目の前で視線を注いでいる青年には抗えないのだ。 揃いの入れ墨を刻み付けてしまう程に、もう随分と前から刻也には頭が上がらなくて、ずっと追いかけていたい存在でもあり、その背中がいつまでも視線の先で、道標のように存在している事に安心している。 居なくなってしまったらどうしていいか分からないくらいに、自分でも気が付かぬ程に目の前の男を模倣し、心の拠り所にしてしまっている。 「出来る事なんか何もないなんて、どうしてそんな事を思うんだ……?」 「それは……、だって」 顔を見られず、俯いて視線を逸らしたままでいても、刻也からは安心させるような声が降り立って、一つ一つ丁寧に言葉を投げ掛けられる。 「お前に自信を失わせているのは、ヴェルフェのアタマが原因か? 名前は何て言うんだ」 「別に俺は……、あんな奴になんか……」 「名前、なんて言うんだ……? それくらいはいいだろ」 「あ……漸、です」 「漸、ね。それで……? お前はそいつとやり合って、決着をつけられなかった。それとも負けちまったのかな?」 「違うっ。負けては、いない……。けど、勝ったわけでもない……」 「強いんだなあ、そいつ。お前が苦戦する相手なんて久しぶりだろ。なんだっけほら……、前にもそういう相手いたよなあ。一人であっちこっち荒らし回ってて……」 「それって……、族潰しの話ですか……?」 「ああ、そうそう。あの時のお前は、決着をつけられなくても楽しそうにしていたのに、今はチームが絡んでいるからなのか、それとも……、まだ他に何かあるからなのか、相手に手応えがあるだけで随分とお前は弱っているように見える。一体どうしてだろうな……?」 暗に何か隠しているのだろうと言いたげで、それでも無理矢理に聞き出すような真似はせず、穏やかな声音で会話を紡いでいく。 解きほぐすように、心を落ち着かせてくれる声を聞かせ、ゆっくりと混迷を極めている思考を救い上げるように、一緒になって頭の中を整理してくれている。 「相手が強ければ強い程、お前は嬉しくてはしゃいじゃうのに、そんな好敵手を前にしてどうしてそこまで頭を悩ませているんだ? そこまで追い込まれているのか……?」 「それは……」 「凌司。お前はな、自分で思っている以上に強い奴だ。何があったのかは知らねえけど、こんな事じゃへこたれないくらい頑丈なんだぞ。お前がどう向き合ってきたか見失っても、あいつらはちゃんと覚えているから大丈夫だ。何を不安になる必要があるんだよ、もっと頼りきっちゃえよ。いつもかっこいいお兄さんでいる必要ねえんだぞ? たまに見せる弱さにドキン! てするかもしれねえし。ははっ、まあ、なんだ。皆お前の事が好きだよ。安心しろ、困ったちゃんめ」 ふ、と柔らかに微笑んで、次いで頭を撫でてくる。 温もりに包み込まれ、不覚にも涙が出そうになるのをぐっと堪えながら、掛けられた言葉を反芻する。 嬉しくて、有り難くて、相手が刻也だから尚のこと幸せが身に染みて、慕っている人物に受け入れられて本当に救われる。 けれどもそれは、彼が何も知らないからなのだ。 漸との間に、拳を交える以外に行われてきた忌まわしき出来事を把握していないから、こんなにも優しげな眼差しを向けてくれている。 知られたら、どうなる。 仲間をも裏切っている事に繋がる行為を、一度ならず二度、三度と繰り返している現状を知られたならきっと、こんなにもおおらかな彼ですらもきっと。 「俺はもう離れた身だから、お前達の問題へ軽はずみに首を突っ込むべきじゃない。それでも俺に出来る事なら何だってしてやりたいし、本当は今すぐ包み隠さず言えって肩揺さぶってやりたいところだけどな」 「刻也さん……」 「そんな悲しそうな顔するなよ。お前にはいつでも笑っていてほしい。お前の幸せを、俺はいつも願っているんだぞ。だからな、無理強いはしねえけど……、知ってしまったら黙ってはいられねえからな?」 「なんだか、意味深ですね……」 「ふっ、そうだろそうだろ。お前が俺を頼っても、俺はいつでも応えられるからな。我慢出来なくなったらいつでもぶちまけに来い。俺は年中無休だからな」 「ありがとうございます、刻也さん……」 「ん。あんまり一人で何でもかんでも背負い過ぎるなよ。お前の辛そうな姿は見たくない。それは周りだって同じはずだ。自分の立場もちゃんと考えなくちゃダメだぞ。気ィ張ってんのも大変だろうけどな。だからこそ俺が居るって事を忘れるなよ、凌司」 頬を撫でられ、恐る恐る視線を向けると当たり前に刻也が居て、慈愛に満ち溢れた笑みを湛えている。 欲しがっても、なかなか求められない想いをいとも容易く刻也は満たし、蕩けてしまいそうな程に甘やかしてくる。 表には出さずとも、こうして密やかに求めている言葉を、その日、その時、その者へと掛けられるようになりたい。 自分にも、まだ何か出来る事はあるだろうか。 あの男ともっと向き合えば、得られる何かがあるのだろうか。

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