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安息のクレマチス
お前に守れるものなんてあるの……?
あの日、アイツはそう言った。
此の身から掻き消そうともがく程に、より深くへと沈み込んでいくようで、ずっと時が止まったまま動いてはくれない。
思い出したくもないのに、いい加減何もかも忘れてしまいたいのに、いつまでも、いつまでもいつまでも脳裏に焼き付いて離れてくれない。
忌々しいのに、顔も見たくないのに、それなのにどうしてあの男との時間ばかりが刻々と紡がれていくのだろうか。
言い返してやりたかった、殴ってやりたかった。
けれども統率の取れていない身体は裏切り、耳元で囁かれる鋭利な刃にすら感じ入り、其の身を傷付けると分かっているのにどうする事も出来なかった。
一人になれば纏わりつく、仲間と居ても、雑踏に紛れていても、果てはこうして心から信頼している相手と時を共にしていても、いつの間にか彼の事を考えてしまっている。
白銀がちらつく、形の良い唇で気持ちを踏みにじるような言葉を、美しい容貌へと微笑を湛えながら色艶を孕み、何度も何度も何度も刷り込ませるように囁いてくる。
共に感触が肌を伝い、甘やかな毒は振り払えぬままに染み渡り、離れていてもふとした拍子に身体がびくりと思い出す。
いっそ屈服してしまえば、アイツのものになってしまえばこの苦しみから解放されるのかもしれないと、一瞬でも過らせてしまった自分を呪ってやりたい。
息遣いが、名を連ねる声が、拒めば拒む程に色濃く居座り続け、離れていても忘れるなと傲慢に言い放たれているようだ。
「凌司……?」
間近で声を掛けられ、弾かれたように視線を滑らせると、心配そうな表情を浮かべている刻也が映り込む
誰と今一緒に居るのかを、十分過ぎる程に分かっていたはずなのに、一体いつから思考を奪われていたのだろう。
「あ……、すみません」
「いや、いいって。何も謝るような事じゃない。それにしても、一体どういうからくりでここまで……」
「刻也さん……?」
「あんまり影響されんなよ。これでもお前の事、すごく心配してるんだ。今のお前はなんだか危うい。頼むから一人にはなるな。あいつらと出来るだけ一緒にいろ。俺がずっとお前と一緒に居ることは出来ないから、せめて……」
「俺、そんな情けなく見えましたか……」
「違う、そうじゃない。今のお前は、なんだからしくない」
「俺らしいってなんすか……」
「凌司。アイツの事は考えるな。気にするな。囚われるな。何を言われたのか知らないが、お前はそんな奴じゃない」
見透かすように、双眸から逃れられずに動きを止め、刻也から紡がれた言葉を大人しく聞き入れる。
「あいつらと……」
「ずっと一緒に過ごしてきた仲間や居場所が、重荷になっちまったか……?」
「違う、そんなわけない。そんな風に思うなんて有り得ない。寧ろそれは、俺が……」
重荷になっているのは俺のほうだ。
「凌司」
「俺……、俺は、ずっと、強いと思ってました。どんな逆境でも、覆せると……」
「強いよ。さっきも言ったろ」
「でも実際は……、この手じゃ、何も……」
「何も出来ないなんて言うつもりか? そんな簡単にお前が今まで積み重ねてきた事を無下にしていいのかよ。頼むから無駄だなんて思うなよ。迷うのはいいけど、あっさりと全てを否定するのは悲しいからやめてくれ。お前が傷付いてるの見たら俺が泣いちまうだろ。もう少し可愛がってくれよ、自分を。ほら、こっち」
「うわっ、ちょ、刻也さ……」
晴れない迷いを、女々しいとは思いながらも未だに連ねてしまい、そのような姿ですら受け入れてくれるからこそ甘えてしまっている。
ずるいと思っても、案の定紡がれた台詞へと安堵してしまい、だがそこから急に引き寄せられて一瞬何がなんだか分からなくなるも、暫しの後に抱き締められているのだと理解する。
ぽんぽんと頭を撫でられ、安心させるように背中を擦られて、本当にそれだけで心が平穏を呼び覚ましていく。
「大丈夫だ、お前は負けない。もう少し自分を信じてあげなさい。この俺が言ってるんだから素直に首を縦に振れ」
「は、はい……」
「自分は無力だなんて思うなよ。お前がいなくなっちまったら泣くからな~! ナキツは死んじゃうぞ、有仁は爆笑だな」
「え……」
「甘えてもらえるのは嬉しいもんだ。脆いところも、素直さも、へんに意地張っちゃうところも全部引っくるめて、お前の事が好きだよ。凌司」
「刻也さん……」
「元気死ぬほど注入してやったからな! これでまた暫くは戦えるな!」
「俺ロボかなんかすか……」
「ふっ、また元気なくなった頃に顔見に来てやるからな。この俺に任せなさい。す~ぐ元気にしてやるからな」
犬でも抱き締めているように、わしゃわしゃと髪を撫で回しながら刻也が笑い、微睡んでしまいそうなくらいに暖かな空気が漂っている。
彼の香りが鼻腔をくすぐり、温もりに抱かれてこれ以上ないくらいに甘やかされて、愛情を注がれてなんだか迷える心が顔を引っ込めてしまった。
そろそろと腕を伸ばし、恥ずかしさに頬を染めながらも彼に触れれば、より一層頭を撫でられて髪型が大変な事になっていそうだ。
つい先程までは、押し潰されそうな程の不安に耐えかねていたというのに、今や微かに笑みが零れそうになっていて本当に忙しい。
この時がずっと続けばいいのにと、子供のような願いを紡いでしまう程度には居心地が良くて、簡単には手離しがたい一時である。
「と、刻也さん……」
「ん? なんだ」
「ちょっと、苦しいです……」
「ははっ、そうかそうか。反省したら離してやるからなっ」
「え、反省……? これは何かの罰ですか……?」
「寧ろご褒美だよな~! どう見ても! よしよし、沢山可愛がってやるからな~! 早いとこやなことなんか忘れちまえよ!」
「ちょ、くすぐってぇ、ははっ、やめっ、だめですよ、はははっ」
急にくすぐられてたまらず笑い声が上がり、刻也からも楽しそうに紡がれている。
それでも見えないところでは、案じるように、必要以上に気に掛けている視線を注がれているも、刻也からはその後切り出される事はなかった。
けれども刻也の中で、漸という名前が簡単に消える事もなかった。
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