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MIST

辺りを見回し、人目を避けるように速足で近付き、焦れた様子で衣服の物入れから鍵を取り出す。 日は傾き、夕刻へ差し掛かろうとしており、燃えるような空が広がっている。 民家から明かりが漏れ始め、時おり風に乗って流れてきた匂いに鼻腔を擽られ、夕飯の支度をしているのだろうと理解する。 そういえば今日は、朝からろくなものを口にしていない。 自覚すると途端に腹が減ってきたが、此処で長居するつもりは更々ない為、用事を済ませたら早々に立ち去らなければならない。 「あそこにあるはずなんだよな……」 独り言を漏らし、なるべく音を立てないように鍵を差し込んで、施錠を解く。 外から見て、居間から明かりが漏れている事は分かっており、きっと母親が過ごしているに違いない。 見付かろうが別に構わないけれど、出来るだけ面倒事は避けて通りたい。 鍵をしまい込み、そっと扉を開けて玄関へと滑り込み、靴を見て中には一人だけであると確信する。 本当は、暫く寄り付かないつもりでいたのだが、帰らねばならない理由が出来てしまったので仕方ない。 気配を窺い、靴を脱いで上がり込むと反転し、備え付けられていた棚の引き戸を静かに開ける。 念の為に靴を隠し、足音を忍ばせながら急いた様子で階段を駆け上がり、すぐにも目的の部屋が見えてきて少し安心する。 此処まで来ればもう確約されたも同然であり、後は取る物を取って出ていけば良いだけの話である。 「ハァ、俺も抜けてるよな……。余計な手間掛けちまったぜ」 溜め息を漏らし、暫し佇んでから取っ手を掴んで扉を開き、徐々に暗くなりつつある部屋へ入室する。 記憶を辿りながら歩き、寝台へと脱ぎ捨てられていた衣服を見つけ、迷いなく近付いて引っ掴む。 物入れへと手を突っ込み、ごそごそと探るも一向に目当ての感触へと辿り着けず、おかしいなと眉根を寄せつつも諦めきれず漁る。 「嘘だろ……。なんで」 いやそんなはずはない、と思いながらも焦燥感に駆られていき、どれだけ中を探ろうとも行き当たらずに頭が真っ白になる。 他の物入れを探っても結果は同じで、申し訳程度に小銭が出てくるくらいであり、一番に欲しい包みが忽然と姿を消している。 まさか盗まれた、いやそんなわけねえよ……。 落ち着け、冷静になれと自分へ言い聞かせながら、過去の行動を懸命に思い出そうと思考を巡らせる。 「薊さんから貰って……、ポケットに突っ込んだまま、一度も出してねえはずだ……」 場所を移したとは考えにくく、やはり其処へと収まっていなければおかしいのだが、どれだけ探しても見つからない。 受け入れきれずに裏返し、何も入っていない現実を嫌という程に突き付けられても、まだ事態を呑み込みきれずに呆然と立ち尽くしている。 落としたか、とも思ったけれど、確かめようもないのでどうしたら良いのか分からず困惑する。 家族の誰かが持ち出したのでは、とも考えたけれど、つい先日訪れてから大して時間も経っていない。 何より入られた形跡がないし、勝手に入室する事を許していない。 それに一番長く過ごしているであろう母親ならば、まず衣服をこのような状態のまま放置しないであろうし、真っ先に物入れを探るなんて有り得ない。 「あの日……、あの日は……」 なんで無いんだよ、おかしいだろ! 苛立ちを露にし、それでも必死に頭を冷やそうと躍起になり、黒い包みを貰ってからの言動を辿る。 やはりずっと持っていた、そんなに浅いポケットではないから、易々と零れ落ちるなんて考えられない。 一つしかないのに、せっかく信頼の証として渡されたのに、こんなにも早々に無くしてしまうなんて。 動揺が窺え、焦りが込み上げ、代物について話を振られたらどうすればいい。 どのような物かも分からないのに使用したなんて言えず、嘘を吐こうものならすぐにも見破られてしまうであろう。 不安が押し寄せてくる。 薊との繋がりを断ち切られるようで、群れへと紛れられる唯一無二の証を失ってしまったような気がして一気に肝が冷えていく。 自分を守ってくれる物を失い、どんな顔をして戻ればいいのかと冷や汗が滲み、どうして己はこんなにも身の危険を感じているのだろうかと不思議にも思う。 無いだなんて認められなくて、分かりきっているのに机へと駆け寄り、上から順に引き出しを開けては乱暴に漁る。 其所には無い、何度頭で訴えても探る手を止められず、いいやきっとこの部屋の何処かにあるはずだ無いなんて信じられないそんな事考えたくもないと冷静さを欠き、入っていた文房具や書類や本を掻き分けてたった一つを求めている。 「來」 そうして唐突に声がして、室内が明るくなったと思うと同時に振り向いて、予想もしていなかった展開に晒されて思考が止まる。 「兄貴……? なんで……」 「やっぱり戻ってきたな。何か探し物か……?」 「アンタには関係ねえだろ。いきなり入ってくんじゃねえよ」 不意打ちに狼狽えるも、直ぐ様眼光鋭く睨み付け、扉を開けて佇んでいる青年へと怒りをぶつける。 「來……、今まで何処で何してた」 「だからアンタには関係ねえっつってんだろ。俺にどうこう言う前に自分はどうなんだよ。散々好き勝手してきたくせに急に現れて兄貴面すんな」 「それは……」 気遣うような言葉に反抗し、自分でもどうしてこんなにも溢れるか分からない憤りを制御出来ず、一気に捲し立てて牙を剥く。 真っ向から敵意を注がれ、兄である咲は言葉に詰まった様子で困惑し、それでも視線は逸らさない。 「悪かった……」 「ハッ、軽い言葉だな。そんな一言で済んじまうんだアンタの中では」 「來……」 「謝罪一つで紛らわして、何にも言おうとしねえんだなアンタは。始めから腹ン中明かす気もねえんだろ。俺もねえから別にいいけど、いい加減目障りだからどっか行ってくれよ」 「それは出来ない……。お前が簡単には俺を許してくれないのも分かってる。でも、だからってお前を放っておくなんて出来ない」 「散々ほったらかしにしたくせに今更兄貴面すんなって言ってんだろ! 俺が一番居て欲しい時にアンタは居なかったじゃねえか……!」 そう言ってハッと我に返り、告げるつもりもなかった想いが勝手に溢れてばつが悪く、机上を探るも全く身が入らない。

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