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MIST

ふとした拍子に振り返り、追っ手が現れていない事を確認し、安堵とも落胆とも受け取れる表情を浮かべる。 前へと向き直り、逸る気持ちを抑えながら突き進み、もう何も考えたくはないと拳を握り締める。 それでも、一人で過ごしていればどうしても余計な事を過らせてしまい、今もまた、先程の光景をいつの間にか思い出している。 どうして今更になって、躊躇いもなくその手を差し伸べてくるのだろう。 自然と足元を見つめ、肩を落として最寄り駅を目指し、振り払おうとすればする程に兄の姿が付き纏う。 「どうだっていいのに……」 独白は風に流れ、次第に空から影が舞い降り、辺りは少しずつ仄暗さを増す。 来た道を戻り、家々には暖かな灯火が宿り、団欒の香りが空腹を擽っていく。 擦れ違う者は今のところ居らず、時おり自動車が通り過ぎていくくらいであり、慎ましく静かな夜が一帯へ訪れようとしている。 一定の間隔で電信柱が立ち並び、ほんのりと街灯が周囲を照らし、空には星が控え目に瞬いている。 俺は何をしているんだろう、と何の前触れもなく疑問が浮かび、目蓋を下ろしてそっと愚問を追いやる。 ゆっくりと目を開け、どうしてか溜め息を漏らしてしまい、今では苛立ちよりも悄気てしまっている。 嫌な奴に会ってしまった、本当にそうだ。 いきなり目の前に現れてお前の事が心配だなんて笑わせる、と怒りを蘇らそうとしながら、目的地へと一人で向かっていく。 いつまでも勝手な奴だ、アイツの事が本当に嫌いだ、顔も見たくなかった。 それでも、あんなにも懸命に引き留めようと立ちはだかり、そんな家族を無理矢理に押し退けて出てきてしまった。 それでいい、何にも間違っていない、当然の報いであるしあの程度では足りないくらいだ。 「くそっ……、何だっていうんだよ……」 後悔しているなんて認めてしまえば、尚のこと自分が情けなくなるだけだ。 包みを手に入れられなかった事だけは心残りだけれど、今となってはどうにもならないし、元を辿れば呆けていた自分の責任だ。 歩みを進めていくと交通量が増え、様々な店舗が軒を連ねる景色となり、駅がうっすらと見えてくる。 薊と一目出会ってから、その辺の有象無象とは何かが違うと思っていた。 彼と一緒に居れば自分もまた、数多の塵芥から外れて特別な存在になれるのかもしれないと、そう思ってしまったのだろうか。 飾りは飾り、眩い程の輝きを身に纏ったところでそれは、一時の仮初めに過ぎない。 それに彼は、光というよりは陰を孕み、まっとうな世界の住人ではない事はきっと大馬鹿者でも感じ取れる。 それでも離れられない、気が付いたらずぶずぶと浸かっていて、誰かの平穏を刈り取る存在と分かっていながらも、自分を見てくれるたったそれだけの事に安らぎを覚えてしまうのだ。 「でも、アレは……、何なんだろう」 正直なところ、恐ろしくて試す気にはなれない。 兄は一体、代物を何処へ持ち出してしまったのだろうか。 聞いても答えてはくれないだろうし、今となってはどうでもいい事だけれど。 思い描いている間に駅へと辿り着き、なんだか早いなと思ってしまう。 待ち合わせをしているのだろう者や、楽しそうに語らいながら歩いていく何人もと擦れ違いながら、券売機へと近付いていく。 見上げて目当ての駅名を探し、丁度先客が捌けたところへ突き進み、ごそごそと衣服から硬貨を取り出して機器へと投入する。 ざわめきにうずもれて、時を感じさせぬ目映さに覆われ、四方八方を目指して歩行者が入り乱れている。 切符を買い、次いで電光掲示板を眺め、5分程で電車が到着すると知る。 自然と歩みを再開し、改札を通り抜けてプラットホームへ向かい、浮かない顔をしながら群衆に紛れる。 薊と顔を合わせたからといって、何か話題があるわけでもない。 一団を統べている身からすれば、余所者一人を相手にしていない事は明白であるし、分かっていても利用されているならもうそれでもいいのだと、諦観の念が脳裏をさ迷って潰える。 何だっていいのだ、もう、戻るのも進むのも億劫だから流れに身を任せ、そうして自分がどうなろうと知ったことではない。 自らを雁字搦めに追い詰め、自棄になって心身共に粗末に扱い、努めてぼんやりと辺りを眺める。 程無くして電車が辿り着き、乗り込んでから丁度良く空いていた席に座り、すぐにも扉が閉まって発車を知らせる合図の後に、滑らかに大勢の人を乗せて次の駅を目指して動き出す。 いつからこんな風になった、考えたって分からないし、深入りしようとすれば自身に拒まれてしまう。 通路を挟んで向かいには誰も腰掛けておらず、暗がりにうっすらと見慣れた顔が車窓に映り込む。 見たくもない、けれどもじっと見つめられ、視線を容易く逸らせない。 何処かで見たことがある顔だ、そうしてまたしても兄がちらつき、やはり似ているのかと嫌になる。 逃げるように俯き、目蓋を下ろして振動に揺られ、薊はもう着いているだろうかと考える。 思えば未だに、彼の事をよく知らないのだけれど、それは自分からも聞こうとはしなかったからだ。 大人しく座っていると、時はあっという間に過ぎ去り、目当ての駅を告げる知らせが車内へと響く。 やっと着いたと思う一方で、もう着いてしまったと感じている自分も居り、気持ちの整理がいつまでも追い付かないでいる。 緩やかに失速し、やがて車窓からの景色が一気に明るくなり、佇む人があちらこちらに見えてくる。 幾人も立ち上がり、降りていく者が多くいるようであり、やがて電車が停まって扉が開いたのを機に腰を上げ、群れに紛れてホームへと降り立ち歩いていく。 流れに添って歩みを進め、表情は無いままにエスカレーターへと乗り込み、ゆったりと上昇していく。 やがて上階に辿り着き、相変わらず人波に辟易しながら歩いていると、前方に改札が見えてくる。 そうしてその先に、一人の男が佇んでいる事に目敏く気付いてしまい、何とも言えない表情を浮かべてしまう。 嫌悪でもなければ心からの喜びでもない、けれども安らいでいるように錯覚してしまう。 わざわざ改札の前で待っていてくれたようであり、途端に申し訳なくなる。

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