258 / 335

MIST

雑踏に紛れ、急激に足取りが重くなったところで今更遅く、目と鼻の先にて薊が一人で佇んでいる。 柱へと凭れ掛かり、片手で携帯電話を操作しているようであり、まだ此方には気付いていない。 四方八方から人波が押し寄せ、器用に潜り抜けながら改札を目指し、徐々に金髪の美々しき青年がはっきりと見えてくる。 そうしてようやく、見慣れぬ装いである事を察し、常に白妙のスーツを着ていたので珍しいと感じる。 俯いているのを良い事に、つぶさに観察しながら歩を進め、我ながら一目でよく分かったものだと思う。 まるで変装でもしているかのような出で立ちだが、髪型や色合いには特に目立った変化は見られず、顔立ちも相俟って直ぐ様目に留まったのであろう。 彼と同様に、待ち合わせらしき人物をちらほらと周辺に見掛けているものの、誰から見てもきっと薊が一番目につく。 「來君」 視界へと収めたまま、改札に差し掛かると薊が不意に顔を上げ、あっという間にすんなりと目が合う。 声は聞こえない、けれども名を紡がれたような気がして、軽く頭を下げる。 手にしていた切符を、機器へと投入して何事もなく改札を通り抜け、最早何物も阻まずに彼が微笑んで立っている。 「こんばんは。待たせてすみません」 「ううん、俺もついさっき来たところだから」 「そうですか。えっと……、その恰好って……」 「ああ、これ? どうかな、似合ってる?」 「え? あ、はい」 落ち合い、二三言葉を交わしてから薊が踏み出し、倣って傍らを歩く。 しどろもどろになってしまったけれど、いつもとは違う薊の装いは新鮮で、よく似合っていると思う。 そうしてよく一帯に馴染んでおり、今でもまだ目立つ存在ではあるけれど、スーツを着ている時よりかは大分和らいでいる。 こういう服装もするんだ、と胸の内で呟きながら、傍らにて歩を進めている美貌の青年を注視する。 普段とは正反対で、気軽な装いだからか少々彼を幼く見せ、なんとなく居心地の良さを感じてしまう。 「なんか、珍しいっすね。そういう恰好見慣れてないんで新鮮です」 「ふふ、なんだか照れちゃうなあ。実はこういう物もご用意しております」 時おり視線を逸らしながら、なんだか話していて照れ臭くなり、道行く人を見つめては言葉を並べる。 隣から笑い声が溢れ、言いながら上着の物入れを探り、何かを取り出した事に気が付いて顔を向ける。 現れたのは黒い縁の眼鏡であり、ますます変装のようだと思いながらも見守り、装着した様にやはりとてもよく似合うと感じる。 「それって度は入ってるんすか」 「伊達眼鏡だから入ってないよ」 「そうなんですか」 「うん、そう。似合ってる?」 「はい、似合います」 思わずふっと笑みが零れ、ざわめきの中を二人で歩いていきながら、やがて涼やかな外気へと触れる。 随分と暗くなり、まさかこうして今薊と肩を並べているとは予想出来ず、何が起こるか分からないものだと辺りを眺める。 途切れぬ群衆がそこかしこで蠢き、日中とはまた異なる表情を見せている街は、まだまだ静まる様子もなく誰も彼もを待ち構えている。 「車を待たせてるんだよね。あ、見つけた。ほら、あそこ」 一旦立ち止まり、周囲を見渡していた薊がお目当てを発見し、指し示しながら笑い掛けてくる。 当たり前に運転手付きの乗用車が待っている事に驚きを隠せないけれど、今に始まった事ではない。 何者なのかと尋ねたところで、きっと上手くはぐらかされてしまう気がする。 視線の先では、路肩へと黒のセダンが停車しており、薊に手を引かれて歩き出してから現状に気が付いて動揺するも、だからといって振り払えもしない。 歩いていると、運転席から何者かが降り、距離が狭まるにつれて次第にどのような人物か分かってくる。 何度か会った事があるも、殆ど会話をしたような記憶はなく、正直なところ近寄り難い印象が強い。 けれど、よくよく見れば彼もまたいつもとは服装が違い、一体どういう事なのだろうかと首を傾げる。 現れた男の額には傷があり、逞しく見るからに強そうであり、出来れば彼と一戦は交えたくないものだ。 彼もまたスーツの印象なのだけれど、今夜はどういう風の吹き回しか気軽な恰好をしており、珍しい事もあるものだと思う。 慣れた手付きで後部座席の扉を開け、傍らにて佇みながら薊を待っており、相変わらず表情からは何も読み取らせてもらえない。 けれどもきっと、歓迎されていないだろう事だけは薄々感じており、特に苦手な者の一人かもしれない。 「お待たせ。さあ、どうぞ。來君」 程無くして辿り着き、待っていた男へ声を掛けてから薊が振り返り、笑顔で中へと促してくる。 足を止め、一瞬躊躇いながら顔色を窺うも、見目麗しい青年はずっと静かに微笑んでいる。 そうしてつい、側にて突っ立っている男をも見つめてしまい、目が合って即座に気まずくなって逸らし、たまたま腕が視界に入って動揺してしまう。 両の腕には入れ墨が掘られており、ぎょっとして食い入るように見つめてしまうも直ぐ様我に返り、そそくさと乗り込んで奥へと座る。 なんで今まで気付かなかったんだろう、と思うも、そうだいつもはスーツ着てたからだと自問自答し、どうしてか鼓動がうるさい。 あんなところに入れてるんだ、と窓からの景色を眺めながら物思いに耽り、本当に知らない事ばかりでなかなか落ち着けない。 「何処へ向かいますか」 「う~ん……、とりあえず適当に流してて」 狼狽える程の事でもないのに、新たな一面を知ってしまったようで声も出ず、どうしてか嬉しさよりも焦燥感の方が程近い。 思考を奪われていると、二人も乗り込んで言葉が交わされ、やがて滑らかに交通へと合流していく。 本当に自分は何も知らない、いつまでも霧へと包まれたままで良いのだろうかと時おり不安に駆られる。 しかし、だからといって離れようとも決断出来なくて、結局のところはずるずると深みに嵌まっていく。 「何処へ行ってたの、來君」 沈黙も束の間、不意に声を掛けられて傍らへ視線を向けると、薊が穏和な笑みを湛えている。

ともだちにシェアしよう!