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MIST

「いや……、別に何処も……。その辺ふらついてただけですよ」 あからさまに瞳が揺れ、それでも往生際悪く言葉を濁し、脳裏へと過る姿を苛立ちと共に追い払う。 いい加減にもう邪魔をしないでくれ、そう訴え掛けてもまやかしが見え隠れし、どうしても掻き消せずに兄を意識してしまう。 怒りに満ち溢れながらも、今にも泣き出してしまいそうな表情とも受け取れ、目の前では薊がじっと黙して見つめている。 「來君……、どうしたの?」 「何にもないっすよ」 「嘘。何にもないなら、どうしてそんなに悲しそうな顔しているの」 「そんな事……、別に、何も悲しくなんか……」 思いもよらぬ台詞に驚き、視線を絡めて即座に反論するも、薊はなかなか納得してくれない。 悲しいなんて、なんでそんな事言うんだ……。 俺はちっとも悲しくなんかねえのに……、寧ろ苛々して仕方がねえのに……。 車窓からの景色は移り変わり、街の灯に時おり薊が照らされて、微笑を湛えながら静かに見つめている容貌が映り込む。 「何かあったんだね。言ってごらん……? 一人で抱えてしまうのは良くない。俺に吐き出せばいい。俺なら……、君の全てを受け止めてあげられるよ」 毒とも、蜜とも思える言の葉が纏わり付き、逃れるように視線を逸らせば顎へと指を這わされて、そのまま頬を擦られる。 來君、と艶かしく囁かれ、どうしてか鼓動が速まり、置かれている状況が分からなくなって狼狽える。 戸惑いを隠せず、触れられた頬から熱が広がり、半開きの口からは何にも紡がれずに喉が渇いていく。 まじないのようだ、操られていくかのようだ。 耳元で吹き掛けられる一言一句を刷り込まれ、意思に反してやがて唇が小さく動いていき、艶を湛えた青年の求めに応じてしまう。 「家……、帰ってました」 「へぇ、そうなんだ。恋しくなっちゃった……?」 「そんなんじゃねえし……。ちょっと忘れもん取りに行ってただけっす」 「そっか。それにしては機嫌が悪そうだけど、当ててあげようか」 不満そうに唇を尖らせていると、間近で薊が悪戯な笑みを浮かべて喋り、なんだか嫌な予感がする。 遠慮したところで無意味であり、薊は楽しそうに声を弾ませており、出来るなら回答は聞きたくない。 「お兄さんに会っちゃった、とか……?」 「まあ兄弟っすから会う時もあるでしょうね」 「どうやら当たりのようだね。更に來君の機嫌が悪くなっちゃった」 「違いますって……。いつも通りですよ」 言ったところで信じてはもらえず、薊はとうに確信しているようであり、苛立っている様子を眺めて愉快そうに相対している。 「どうしてそんなに意地を張っているのかな」 「張ってない」 「そうやってムキになるところが特に」 「違う。俺はあんな奴の事なんか大嫌いだ」 「本当にそうかなあ」 「ホントです。顔なんかもう見たくもねえし……。なんであんな奴と兄弟なんだろうって……」 疑われるのが嫌で、捲し立てるように片っ端から言葉を拾い、とにかく忌々しいのだと主張する。 車内は薄暗く、運転席からはただただ静けさが漂い、宛てもなく行き交う流れに紛れ込んでいる。 表情なんて分からない、そうは思いながらも俯き、相手の顔も真っ向から見られずに言葉が途切れる。 そうして目前から笑みが消え、何にも発さずに見ている事にも気付かぬまま、自分でも言いたい事が分からなくなって困惑する。 「そんなに……、お兄さんが嫌い?」 つうっと頬を指が滑り、ささやかなくすぐったさにひくりと身体が動き、台詞の真意に首を傾げる。 「とっくに知ってるじゃないすか」 「そうだね。お兄さんの話題になると、來君はいつも怒っちゃうもんね」 「だからもう……、いいじゃないすかその話は」 「ねえ、來君……」 そんな事はいいからもっと別の話をしようと思考を巡らせ、そうして不意に間が訪れて髪へ触れられ、気を逸らしていた鼓膜へそれは流れるように注ぎ込まれていく。 「そんなに邪魔なら、消してしまおうか……」 瞬きを忘れ、鼓動が一際大きく主張し、何を言われたのか理解に苦しむ。 動きを止めた身体が、紡がれた台詞を反芻してもまともに働かず、聞き間違いだと言い聞かせている。 「え……?」 「大切な來君がそんなに困っているのなら、俺も一肌脱いであげないとね。よし、來君のお兄さんを殺そう」 「あ……、え、な、なに、言ってるんすか……」 「手伝ってあげるよ。大丈夫、一緒ならきっと上手くいくから」 「え……、冗談ですよね。や、別に……、そこまでする程の事でもねえし」 「どうして……? あんなに憎らしく想っていたじゃない。俺に恥かかせるの……?」 優しげに冷え冷えとしていく刃が、紡がれる度に此の身へと突き刺さり、迫力を増す声音に口を閉ざす。 どれだけ考えても、とても賛同など出来ない。 どうしてそのような事を言い出すのか不明で、全く理解出来ずに声を詰まらせ、早くいつもの冗談であると穏やかに笑い掛けて安心させてほしい。 「でも……」 救いを求めるように、無意識に運転席へと視線を注いでも、沈黙だけがもたらされて逃げ場はない。 冷や汗が滲み、手先の震えをごまかし、混迷を極めている頭の中は真っ白だ。 冗談だろ、そうに決まっている。 一体何を考えているのだろうか、分からない。 露程も掴めなくて背筋が粟立ち、目の前で闇に紛れる男はさながら悪魔のようだ。 「良心が咎めているの? 來君は優しいもんね」 「あ、あの……、あの包みって、なんなんすか」 「ん……? ああ、この前渡したアレ?」 冷静になれず、落ち着いてなんていられず、とにかく気を逸らせなければいけないと躍起になり、思い付きで急に話題を振る。 話し込める程の情報量も無いというのに、軽率に選ばれた話題を自覚しても遅く、薊は首を傾げている。 けれども遮る事無くすんなりと受け入れ、何の話をされているのか程無くして理解したらしい薊が、幸いにも乗ってきてくれる。 「気になるなら試してもいいよ。今持ってるから」 「あ……、こ、怖いんでいいです」 「え? アハハッ、怖いってそんな來君! その面構えで、くくっ」 「あの、笑い過ぎですって……」 「ハハハッ、ごめんごめん。だってさ~、そんな今にも噛み付きそうな感じなのに怖いだなんて、可愛いなあって思ってさ。今のうちにもう少し持たせてあげようか……?」

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