267 / 343
鬼事遊び 〈1〉
何処からともなく風が流れ、さらりと黒髪を揺らしながら、身構える事もなくヒズルが佇んでいる。
四方を金網で囲まれ、敷地の外へと通じるような出入口は、相対している場所から確認出来ない。
静けさが広がり、黒髪の青年から視線を逸らせず、隙を見せようものなら一気に詰め寄られてしまう。
漸と芦谷の動向が気になるも、先程の攻撃を躱した事で位置が変わってしまい、奇しくも今は彼等から背を向けている。
涼風により、目元へと掛かる前髪が視界を阻むも、彼は気にする素振りも見せずに泰然自若としている。
そうしてじっと此方を見つめ、相変わらず感情の機微を窺わせず、機械でも相手にしているかのような気分になってくる。
「芦谷! そいつに近付くな!」
どのような状況になっているのか分からず、焦りが込み上げるも集中力を散らそうものなら、目前にて佇む静やかな獣が牙を剥く。
息つく暇もない攻防に汗を滲ませ、じんわりと身体が熱を纏っており、風が通り過ぎる度に気持ちがいい。
ヒズルと視線を合わせたまま、後方に居るであろう芦谷へ声を掛け、なんとか想いを伝えようとする。
だが、どうして離れなければいけないのかは説明出来ず、元より詳細なんて言えるわけもない。
じり、と足を滑らせて対峙し、未だ睨み合いを続けている後ろでは、声を掛けられた芦谷が困惑した表情を浮かべている。
「何がどうなって……」
事態が急変し、いつの間にかすっかり複雑化しており、芦谷は置かれている現況を理解出来ずにいた。
どうやら見知った間柄ではあるらしい、という事だけはかろうじて読み取るも、それならばどうして戦っているのかと首を傾げる。
「人聞きの悪い事を言わないでほしいなあ。ねえ、綺麗なお兄さん」
情報が余りにも少なく、頭を働かせるも呑み込めるわけもなく突っ立っていると、声がして顔を上げる。
目前には、今しがた現れた青年が立っており、真っ直ぐに視線を注いでいる。
日常ではまずお目にかかれないであろう銀髪を靡かせ、造りもののように整った顔立ちへと笑みを湛え、穏やかな声を聞かせている。
全ての視線を、声を、意識を瞬時に奪えそうな程に、見目麗しい青年が柔らかな雰囲気を帯びて其処に立っている。
「外は気持ちいいね。静かで落ち着く」
「お前は……」
「漸、て呼んでくれていいよ。お兄さんは、真宮のお友達かな」
「……まあ、そんなところだ」
「そうなんだ。お兄さん綺麗だね、モテるでしょ」
「何言ってんだ……。そういうお前こそ引く手数多だろ」
「そんな事ないよ。でも、お兄さんみたいな綺麗な人にそう言ってもらえるのは、ちょっと嬉しいかな。気に入ってくれた? 俺の事」
ふ、と白銀の青年が微笑み、優美に佇んでいる。
漸と名乗られ、やはり顔見知りであろう事が分かるも、何故近付いてはいけないのかが分からない。
警戒をしながらも、今のところ敵意を注がれるような事もなく、悠長に立ち話なんてしている。
本来の目的は、彼等と顔を合わせる事とはまだ知らず、戸惑いを隠しきれないまま唇を開き、つい漸と会話を続けてしまう。
いちいち絵になるような男で、誰もが放ってはおかないのではないかと思う。
正体は謎めいたまま、それでも青年は温和に微笑んでおり、注意深く観察しても一向に意図が見えない。
「そんなに警戒しなくてもいいのに。取って食べたりなんてしないよ」
「アイツとは……、真宮とはどういう関係なんだ」
「ん? 真宮か……、そうだね。そんなに気になる……?」
小首を傾げ、含むような物言いをしながら見つめられ、芦谷は言葉に詰まる。
一連を眺め、そうして逸らされた視線が注がれた先には、攻防を繰り広げている姿が映り込んでいる。
視線を追えば、先程まで対峙していた影が再び忙しなく動いており、目の前の標的に手一杯な様子だ。
「あの男は、お前の仲間か?」
「そういう事にしておいてくれていいよ」
のらりくらりと躱され、結局何にも聞き出せていない事に気付くも、口を割らせたところでそれが真実とは限らない。
「何か面倒な事に巻き込まれていたようだったけど、大丈夫?」
どうしたものかと思案し、ぼんやりと二つの影を目で追っていると、漸の声が思考を遮ってくる。
面倒な事、と言われてすぐには何を指しているのか分からず、芦谷は眉を寄せて漸を見つめる。
しかし程無くして、尻餅を付いている男を思い出し、そういえば絡まれていたのだったと記憶が蘇る。
「此処へ来る途中、仲良く伸びてたからさ。運ぶのも大変そうだったから置いてきちゃったけど」
即座に通路での事が頭を過り、やはり察していた通りの状況になっている。
それでも彼は、このような事態に遭遇していても冷静であり、全く意にも介していない。
情報が足りず、判断しきれず、目の前で微笑んでいる男とどう向き合えば良いのか分からない。
黒髪の青年の仲間であるならば、良き相手とは言えず、正体が掴めない以上は安易に警戒を解くわけにはいかない。
「真宮と一緒に居るくらいだから、君もそれなりに出来るの?」
「え……?」
「コレ」
読み取れずにいると、徐に漸が両の拳を構え、そうしてようやく不穏な気配が立ち込めている事に気が付き、視線を絡めたまま間合いを取る。
「まだ時間掛かりそうだし、ただ突っ立ってるのも退屈だろ? それなら俺と、少し遊ぼうか」
「どういう意味だ……」
「言葉通り、単なるお遊びだよ。大丈夫、手加減してあげるから。安心してかかっておいで」
状況が呑み込めず、けれども向こうで行われている事が、此処でも今まさに始まろうとしている。
何を考えているかなんて、問い掛けたところできっと理解出来ない。
避けては通れないようだが、手加減という言葉が引っ掛かり、奥底で眠りに就いていた闘争心が仄かに熱を帯びていく。
沈黙が流れ、両者の間を夜風がすり抜けていき、一歩も動かずに視線だけが交わる。
「手ェ抜いて怪我しても知らねえぞ」
軽く息をつきながらも、白銀を見据える双眸には戦意が宿り、これから起ころうとしている事を静かに受け入れている。
対する青年は、笑みを浮かべたまま見つめており、一見するととても手荒な真似をするような人物とは思えない。
ともだちにシェアしよう!