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鬼事遊び 〈2〉
ゆっくりと、一見すると宥めるように、穏やかな手付きで肌を撫でられる。
胸ぐらを掴む手に、指を這わせながら微笑んで、何にも言わずに見つめている。
促すように、煽るように、全て分かっているとでも言いたげに、美々しい青年は大人しくしている。
追い詰められているはずなのに、楽しそうに口角をつり上げながら、出方を窺うように身を委ねている。
殴りたいんだろう? 殴ればいい、好きにしたらいい、我慢なんてしなくていいんだよと甘やかな囁きが聞こえるようで、悪い夢へといざなわれている。
きつく締め上げても、すりと撫でる手に動揺は見られず、蠱惑的な眼差しがまとわりついて離れない。
「どうしたの? 怖じ気づいた……?」
小首を傾げ、くすりと笑みながら覗き込まれるも、先へと進められないでいる。
頭に血が上り、今にも殴り付けそうな剣幕でありながら、誘いに乗ってはいけないと懸命に食い止める。
認めたくはないが彼の言う通り、此方から手を出しては元も子もない。
今、此処で拳を交えてはいけない。
分かっている、今更そんな事を誰に言われるまでもなく理解しており、寧ろ自分は言って聞かせる側だ。
安い挑発だ、このような事柄で足場をぐらつかせるような己ではないと分かっているはずなのに、この男を笑わせるしか道はないのかとやりきれなくなる。
「殴ればいいのに。もう少しさァ、たまには自分の好きなように動いてみたら? そうしたら何かが変わるかも、やっぱり手なんか組めないって、真宮が戻ってきてくれるかもよ?」
「黙れと言っている」
「そんなにきつく絞めないでよ、苦しいじゃん。なァ、殴んねえの? 面白くねえなァ。真宮とやっちゃうよ? いいの?」
「そんな事を許すわけがないだろ……」
「何言ってんの? お前に許されなくても、アイツに許されなくても、そんな事は俺には関係ない」
凍てつくような双眸が、微笑を湛えながらも此の身を貫き、胸ぐらを掴む手をぐっと掴まれる。
「アイツの気持ちをいつも最優先に考えちゃって苦しいね。こんなにいい子なのに、頑張ってるのに、真宮はちっともお前の気持ちを分かってくれない。いつまでも我慢なんてしてないで、やりたいようにやっちゃえばいいのに。いっそ閉じ込めてしまえば……、俺にも誰にも、手出しされなくて済むよ……?」
するりともう一方の手が、頬を包み込んで撫で、ぞくりと背筋が戦慄く。
突き放すように、どんと漸を仕切りへと押し付けてから離れ、後退りながらも視線は逸らせない。
「あ~あ、皺になっちゃうな。大人しそうな顔して結構乱暴だね。ああ、真宮が絡んでるから余計に?」
「……お前の言葉には惑わされない」
「殴ってくれて良かったのに、ディアルの綺麗な参謀さん。おんなじところ」
と言ってから口角に触れ、指で傷をなぞる。
それは、気付いていながらも特に何とも思ってはいなかったヶ所であり、彼の行いに疑問が生じる。
そうしてすぐに察し、会っていたという事実に晒されて言葉を失い、押し寄せる感情を整理出来ない。
「それは……」
「真宮に殴られちゃった」
「……信用出来ない」
「別にどっちでもいいよ。気になるんなら、後で真宮に聞いてみれば? 答えてくれないだろうけど、察しのいいなきっちゃんならアイツの嘘なんてすぐに見抜けるだろ?」
「……ヴェルフェの連中は」
「知らないよ。あ、ばらしちゃう? いいよ。そうしたら何が起こるだろう。それとも何にも起きないかな。アイツを好きにしても、こうして野放しにされてるくらいだからな」
「どういう意味だ……」
睨め付けながら言葉を紡げば、漸は何にも言わずに掌を差し出し、もう一方の手でつうっと手首に指を滑らせながら微笑む。
そうして思い出される、かの青年がずっと隠したがっていた事実を、この手に暴かれて傷付いた表情を浮かべていた現実を、この男によってもたらされた全てを。
「あ、やっぱり分かってるんだ。流石はナキツ君、察しがいいね。アイツ何処まで喋った?」
「……何も」
「じゃあ、お前は何処まで察してんの?」
言われて拳を握るも、暴走させるべく挑発しているのだと言い聞かせ、心を落ち着かせようとする。
手首に根付いていた傷は、今やすっかり良くなって消え失せ、彼を縛り付けていた痕は無くなった。
部屋で、拒む彼の手を取って、秘密を暴かれてしまった時の表情が目に焼き付いて、昨日のことのように今でも思い出せる。
「……お前を許さない。出来れば今すぐに此処で殺してやりたい」
「物騒だなァ。なきっちゃんでもそういうこと言うんだ。ファンが悲しむよ?」
「自分がした事を分かっているか」
「さあ……、お前は? アイツの弱みにつけこんで随分と楽しんだんじゃないの? 具合良かっただろ……? 意外と泣き虫だよなァ、真宮ちゃんて」
「お前の言葉には惑わされないと言っている。あの人は……、真宮さんは、お前のような奴には屈しない」
「それは託してくれるってこと? 俺に、委ねてくれるんだ」
「勘違いするな。俺は……」
それでも、真宮さんの思うようにさせてやりたいだけだ。
此処で迂闊に手を出してはいけない、そう言い聞かせながらも拳を握り、悪しき青年と相対する。
毒のように侵食し、意のままに操ろうとするかのような言動の数々に、いちいち真に受けていたらきりがないし身がもたない。
今ではない、いつかはぶつかろうとも現時点では手を取り合わなければならない間柄であり、感情を優先して壊すなど出来ない、してはならない。
例えそれが更なる苦しみを生んでも、白銀の行く手を阻むには代償があまりにも大きく、だがこのままにしていても不安ばかりが募っていく。
本当にこれでいいのか、自問しても答えは出ず、口を閉ざしている様を見て漸は笑んでから、そのまま何にも言わずに歩を進める。
目の前を横切っても、扉の開閉が聞こえても突っ立ったまま、いつまでもどうすれば良かったのかこれでいいのか間違えてはいないだろうかと繰り返し、額へと手を添えて苦悶する。
信じろ、そんな神にでも縋るような漠然とした想いが宙を舞い、結局何にも出来ない自分を呪わしくみじめに感じる。
どうしてだろう、なんでこんな事になってしまったのだろう、隣に居られればそれで良かったはずなのに、いつからそれだけでは満足出来なくなってしまったのだろう。
「真宮さん……」
返事はないと分かっているのに、呼んでしまう。
腹立たしさも虚しさも全てが自分へと注がれ、何に悔やんでいるのかも分からないまま呆然とする。
そうしてなんて無力なんだろうと、白銀の後すら追えないままに立ち尽くし、暫くは一人足元を見つめていた。
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