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鬼事遊び 〈3〉
腰まで伸ばされた黒髪が、目の前で揺れている。
黒雲が統べる空の下、更なる暗澹を率いながら歩を進め、時おり風に乗って鼻歌が聞こえてくる。
「ナギリ、居るの?」
ぼんやりと思考を巡らせていると、先を歩いていた憂刃が振り返る。
鮮やかな金糸の髪は隠され、代わりに艶やかな黒髪が美しき容貌を彩っており、夜陰に紛れて妖しげな雰囲気を湛えている。
「居るよ」
「ねえ、何か喋って」
「え? 急にそんなこと言われても……。えっと、良かったのかな」
「何が?」
「ほら、ヒズルさんとの約束、すっぽかしちゃったし……」
「何だそんなこと? いいっていいって、ヒズルが上手くやってくれるでしょ。漸様主導なら何がなんでも絶対に行くけどぉ、今夜はこっちのほうが大事だし。ヒズルには悪いけどね」
距離を置き、ゆっくりと後ろ歩きしながら言葉を紡ぎ、相変わらず思うがままに振る舞っている。
街灯に照らされると、真紅の唇が艶然と浮かび上がり、大層機嫌が良いようで弧を描いている。
切り揃えられた前髪により眉は見えず、丸襟にレースが施された白いブラウスを着て、黒のカーディガンとフリルがあしらわれたスカートを合わせており、月光の届かぬ夜道でコツコツと踵を鳴らしている。
「たぶんこの前のこと、だよね」
「だろうね。とうとう動き始めるんじゃない?」
「それならますます行かなきゃまずいんじゃ……」
「ちゃんと急用が出来たって言ったも~ん」
「絶対に嘘だってバレてるだろ……」
「用事があるのは本当じゃん? それもとびきり大事なさ……」
「憂刃……」
に、と笑んだ憂刃が向き直り、黒髪を靡かせながら再び背を向ける。
本人は大して気にもしていないようだけれど、どうしても一抹の不安が過ってしまう。
けれども口を挟んだところで、憂刃が心変わりしてくれる可能性は極めて低く、特定の人物が絡めばそれは殆ど無に等しい。
よって今夜は、完遂するまで終わらないであろうし、何を思おうが傍らで見守っているしかないのだ。
「ところでナギリ、黒髪も似合うじゃん」
「そうかな……。ずっと赤かったから落ち着かないんだよね」
「賢そうに見えるよ」
「う……、それって普段は何なんだよ」
「ふふ。でもやっぱりナギリには赤かな。これが終わったらすぐに戻してね、ナギリ」
くるりと振り向いてから笑み、携帯電話を取り出して連絡を待ちながら歩み、時おり天を仰いでいる。
倣って空を見上げれば、どんよりとした雲が一面を覆っており、今にも雨が降り出しそうである。
視界を阻んだ前髪を摘まみ、暫く見つめながら歩いて手を離し、いつから赤くしてたっけと思う。
切欠は些細で、憂刃に赤くしてと言われたからであり、自分よりも余程気に入っているようである。
今夜は、出来るだけ目立たずに素性が暴かれぬよう、普段とは異なる風体で事を成そうとしている。
ヴェルフェは無関係、けれども漸とは根深く絡んでおり、だからこそ憂刃がはりきって臨んでいる。
これも後々ヒズルにバレるだろうな、と気が重くなりつつ、一番問題なのはやはり漸の動向であり、何処まで察しているのだろうかと考えてしまう。
流石に何にも気付いていない、という事は無いであろうし、それならばどうして泳がせるのかと頭を悩ませても、面と向かって言及されたらそれはそれでやはり困る。
「頃合いを見計らって止めるしかないか……」
やり過ぎないように、と胸裏で呟きながら後を追い、今頃クラブではどのような話がされているのだろうかと過らせるも、状況を当てられそうにない。
「あ、ていうか漸様もあっち行ってる?」
「たぶん、そうだと思うけど」
「は~、会いたかったなあ。ますます許せねえし。つうかおっせぇな、連絡まだかよ。しくったらしょうちしねえぞ」
携帯電話を弄り、液晶によってぼんやりと姿を照らされ、憂刃が苛立った様子で言葉を連ねる。
人気はなく、車も通らぬような夜道を進み、そろそろ捧げられるであろう仲間、憂刃からしてみれば手駒の続報を待っている。
始まりの合図を機に、指定地点周辺をうろつきながら時間を潰し、憂刃と二人きりのいつもと変わらぬ時間が流れている。
「あ~、それにしても漸様ってなんであんなに美しいんだろう。僕だ~いすき」
「ああ、はいはい。またいつもの?」
「ちょっとちゃんと聞いて!? あ、もちろんナギリの事も大好きだよ!」
「ついでかよ」
「でも~、漸様は別。神様だから。みんなとは一緒じゃないの」
「分かってるよ。いいんじゃない?」
漸、と紡ぐだけで幸せそうに声を弾ませ、彼に出会ってから憂刃はずっと虜であり、今では白銀を中心に世界が回っている。
より生き生きと楽しそうに、漸と接している時はこれ以上ないくらい安らいで、目を輝かせている。
夢中で追い掛け、幸せに浸れる日々を送れて良い事だと手放しで喜びたいが、彼へと沈む程に変わっていく憂刃に戸惑いを感じていて、それなのにずっと隣で見守っている。
きっと止めるべき、なのだろう。
今夜、これから起ころうとしている事も含めて、憂刃を本当に想うならば力ずくでも阻止するべきなのであろう。
分かってはいても、今宵もこうしてうっとり名を紡ぐ憂刃を見て、底無しの闇へと足を踏み入れている。
どんどん戻れなくなる、帰り道が分からなくなる。
それでも数多と憂刃を天秤に掛ければ答えは変わらず、結局どれだけの犠牲を払おうともただ一人を選んでしまうのであろう。
「来た! は~い、憂刃だよ! もう遅いじゃ~ん! 待ってたんだよ? ねえ……、上手くいってるよねえ?」
思考を遮り、携帯電話を耳に押し当てながら憂刃が喋り、立ち止まって相手の話に耳を傾けている。
事態は動き、どうやら上手くいっているようであり、憂刃の目に留まってしまったが為にまた一人、不幸な徒花が摘まれようとしている。
「いい子、後でご褒美あげるね。ナギリ! 行くよ!」
通話を切ってから憂刃が顔を向け、名を紡ぐ。
そうして駆け出す様を見て追い掛ければ、前方では風を切って黒髪が靡いている。
迷いなく突き進み、踵の高い靴を履いているとは思えない速さで走り、路地に入って笑顔であろう憂刃の背中を見つめながら駆け抜けていく。
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