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血と洗礼 16

滴り落ちる血が、雨に濡れた路面を緩やかに穢す。 ハァ、と溜め息を吐くも、面倒な現状から脱する術はなかなか思い浮かばない。 認めたくはないが、自分は今窮地に立たされている。 最早行く手を阻むのはたった一人であるというのに、何人分にも感じられる程に守りの層が分厚い。 遊んではいられない、と胸の内から警告が聞こえるも、突如として現れた輩に翻弄されているかのような状況に苛立ちが増していく。 「ねえ、そろそろ教えてよ。俺をこんな目に遭わせてどうするつもり?」 「お前が抵抗しなければ、無駄に傷付く事もなかったはずだ」 「傷付くなァ……。俺のせいだとでも? 誰だって、アンタらみたいな怖いお兄さんに囲まれたら怖がると思うけど」 「そうだな。だからこそお前と違って、大体は大人しく付いてくるんだがな」 「アレ、そうなの? 頑張ってんのって、俺くらい? ていうかさ、どんだけ人浚いしてんの? 怖いなァ……、お兄さん何者?」 「今は知る必要はない。時間を稼いでいるつもりか? 傷付いたお前に猶予はないぞ」 一線を刻まれた傷痕が、熱を孕んでズキりと苦しみに悶えている。 血が止めどなく溢れ、雨に濡れた衣服へと痛々しく染み渡り、事の凄惨さを如実に物語っている。 長引かせるのは良くないと、自分でも分かっている。 だが目の前の男から逃れるのは容易ではなく、かといってこのまま大人しく引き下がる気にもなれない。 泥臭い現状にうんざりするも、ここまで薄汚れてしまっては何もかもが今更だ。 意識を集中して身構え、合図とばかりに繰り出された刃を躱し、男の動きを見逃す事なく頭に叩き込んでいく。 そうして周りを見れば、倒したはずの男達が一人、また一人と意識を取り戻し、身体を引き摺りながら起き上がろうとしている。 「こわ、ゾンビかよ」 「よそ見をしていていいのか」 彼等が再び襲い掛かる事があれば、万全ではなくとも目前の男を相手にしながらであれば十分に脅威となる。 腕を庇いながらの攻防は思うようにいかず、男からの猛攻にやがて防戦一方となる。 いよいよ後がない展開に陥り、何度目かの切っ先を躱したところで誰にも予想出来なかっただろう事が起こる。 「キャアァァッ!」 何処からともなく響き渡る悲鳴に視線を向ければ、暗闇の向こうで浮かび上がる人影が戸惑うように立ち尽くしている。 どうやら通行人らしく、叫ぶや否や踵を返し、追われているかのような必死さで来た道を戻っていく姿が映り込む。 「く……!」 その一瞬の隙が、またしても彼からの一撃を喰らう切っ掛けとなり、頬が徐々に熱を帯びて血が滲んでいくのが分かる。 「テメエ……」 「どうやらここまでのようだ。引き上げるぞ」 獰猛な視線に怯む事もなく、アッサリと身を引いた男は周りへと声を掛け、何事もなかったかのようにこの場を後にしていく。 そうして思い出したように振り返れば、当初の目的であった人物は姿を消しており、混乱に乗じて逃れていた事を今更ながらに理解する。 そんな事にすら気付かず、得体の知れない刺客に翻弄され、屈辱的な傷まで付けられてしまった。 湧き上がる怒りは止めどなく溢れ、言葉にならない苛立ちは降りしきる雨に浄化される事もなく、どす黒く心を塗り潰していく。 堕ちても堕ちても底がない、光のない闇へ。 呆然と立ち尽くすように留まっている間に、正体不明の刺客達は散り散りに行方を眩ませる。 やがて雨の音だけが響いて、静けさを取り戻した路上に一人取り残され、暫くは物言わずに立ち尽くす。 しかし一方の拳を握り込む強さには憎悪にも似た感情が込められ、ふらりと一歩を踏み出すと、脱ぎ捨てていた上着に気付いて乱雑に引っ掴む。 散々に濡れ、血塗れた自身に構う事もなく歩き始め、表情からは感情が読み取れない。 けれども暗鬱とした空と同様の空気を身に纏い、目的など忘れたかのように歩む瞳には、冷淡な光だけが宿っていた。

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