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鬼事遊び 〈3〉

さら、と肩に掛かっていた黒髪を手で払い、口角をつり上げて見下ろす。 数多の星も、唯一の月影も、視線を逸らすように暗雲へとうずもれ、一縷の救いすら射し込まない。 時おり風が吹き、さらりと眼前にて黒髪が揺れ、暫しの静寂が流れる。 「莉々香(りりか)さんだよね。君」 街道の灯りを頼りに、憂刃の傍らへ出てしゃがみ込むと、尻餅をついている徒花へと腕を伸ばす。 警戒されるも、足に絡み付いている鞭を掴めば、視線を注いでじっとしている。 「なんで……、アタシの名前……」 「まあ、調べたからね」 「調べる? ちょっと……、なんでよ? ていうかなんなのアンタ達?!」 黙々と革紐を解き、投げ掛けられる疑問に淡々と答えるも、当たり前に莉々香という彼女は納得していない。 ますます混迷を極め、矢継ぎ早に質問を浴びせ掛けながら、興奮した様子で鋭い眼差しを向けている。 「意味分かんない……、なんでアタシがこんな目に……。こんな事してただで済むと思うなよ……! アタシには……!」 ほどけた、と呟いてから革紐を束ねていると、莉々香が睨め付けながら何事かを語気荒く紡いでいる。 用は済んだとばかりに立ち上がり、鞭を片手に後退すれば佇む憂刃が映り、艶やかな髪を揺らして標的へと前進する。 「ただで済むと思うなよ……? なにそれぇ、もしかして僕に言ってる? この状況で? そんな面構えで? まだ助かると思ってるんだ。おめでたい頭だよねぇ、からっぽじゃん。何の取り柄もないテメエが、何をしたか覚えてる……?」 笑みながらも、何処までも冷ややかな双眸が目下を貫き、猫なで声を聞かせてくすくすと嗤笑する。 怯えを滲ませながらも、迫り来る脅威から視線を逸らさず、足を動かせばジャリと小石が音を立てる。 デニムのショートパンツからすらりと伸びた下肢は、転んだ拍子に擦りむいて痛々しく傷付き、鞭になぶられて鬱血している。 可哀想に、とは思うものの止めるつもりはなく、莉々香という勝ち気な女性を見つめて耳を傾ける。 「何をって……、何の事よ。そもそもアンタ誰? アンタみたいな気味悪い奴知らないんだけど」 「別に知らなくていいよ。知らせる名前もないし、君に聞かせるには勿体無いもの」 「名前なんか知らなくたってそのツラは覚えたからな! お前らなんかすぐに潰して……!」 「本題に戻ろっか。テメエ何勝手に喋ってんだよ。調子に乗んなよ? 立場を弁えろよ。ずっとこの僕の美しい顔だけが脳裏に残るように、その薄汚ねえ目ン玉潰してあげようか」 「いや……!」 叫びも虚しく、気に入らない態度に憂刃が蹴りを入れ、莉々香は必死に抵抗しながら声を上げている。 がむしゃらに腕を振り、打撃を加えてくる足を防いでは叩き、土や雑草を引っ掴んで前へと投げる。 抗わなければ良いものを、と思えども結局は、どちらにしても辿ろうとしている道筋に変化はないのだ。 パラパラと、投げ付けられた小石や土が憂刃から零れ、地に落ちていく中ですっと手を差し出され、言葉を交わさずとも汲み取る。 視線を逸らしながらも、そっと憂刃の手へと得物を持たせれば、直ぐ様持ち変えて空気が切り裂かれる。 「うっ……!」 咄嗟に両の腕で防ごうとも、痛手を負わされるだけでとても歯が立たず、莉々香は苦しみに呻いている。 「ねえ……、銀髪の男を知っているよね」 抑揚のない声が辺りへと響き、眉間に皺を寄せながら思考を巡らせては顔を上げ、彼女は唇を震わせる。 「銀髪……? え……」 「知ってるでしょう? しらばっくれても無駄」 「知ってる、けど……、漸が何……?」 「あァ?」 漸、と紡いだ瞬間に革紐が唸りを上げ、言葉にならない悲鳴が漏らされる。 空気が変わり、憂刃へと視線を戻せば足を上げ、踵で莉々香を踏みつけている。 「漸? 漸て言った……? なんでそんなに馴れ馴れしいの? テメエ如きが何様のつもりだァ? 身の程弁えろよクソビッチがテメエあの人に触れただろ? その汚い手で、あの人に……!」 「痛っ、やめ……! なんで! こんな事されなきゃなんないのよ! 大体話し掛けてきたのは向こうからだし! アタシは別にアイツの事なんかなんとも、きゃっ!」 「ハァ? これだからブスはすぐ勘違いして面倒臭い。何お高くとまっちゃってんの? 鏡ちゃんと見てる? 本当に漸様の目に留まったなんて思っているの? うっぜぇなァ……、本当に鬱陶しい。そして図々しい。そんな顔面偏差値で僕の視界に入らないでくれる? 目障りだからさァッ……」 無慈悲な横暴を注がれ、複数の眼差しに晒されながらも身体を捩り、少しでも我が身を守ろうとする。 けれども憂刃は逃さず、元々情なんて微塵もない為に足蹴にし、吐き捨てるように呪いの言葉を紡ぐ。 羽織っていた枯茶のカーディガンは薄汚れ、中に着ていた白いシャツも共に汚されていき、悪辣な蛮行によって痛め付けられる。 これまでに何人も、何人もが目の前で鬼に喰われ、二度と近付いていく者はいない。 たまたま目に留まってしまったから、若しくは憂刃が居ると分かっていたから、運悪く彼女は地べたを這いずりながら責め苦に一人で堪え忍んでいる。 俺は……、漸さんは、憂刃が見ている事を知っていたんじゃないかと思う。 確証なんてない、ただの勘だけれども、なんとなくそんな気がしてしまう。 どうせ言ったって怒るだろうし、きっと信じない。 俺も滅多な事を口にするつもりなんてない。 でも……、いつかこんな事、双方を後悔させるような気がしてならない。 「待った」 頭に血が上っている憂刃の腕を掴み、制止する。 思考を遮って、無理矢理に終わらせて振り上げていた足が止まり、一帯に僅かながら静寂が舞う。 「顔はダメ」 「……ああ、うん、そうだったね。分かってるよ」 撫でるように諭せば、程無くして返答があり、多少は落ち着いている。 静かに足を下ろし、一歩後退してから武器をしまい、一連の行動を見守ってから腕を掴んでいた手をそっと離す。 傍らを見つめれば、ぼうっと見下ろしている憂刃が視界に収まり、足元では莉々香が瞳を潤ませている。 「近付かないで。もう二度と……、あの人に。ううん、近付かせないから大丈夫……。お前は終わる。此処で終わる。だから安心して奈落の底まで沈んでよ。テメエには蜘蛛の糸すら残されない、真っ暗闇がお似合いだよ」

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