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庇護者 4
「漸……」
もう一度、存在を確かめるように名を呼ぶも、傷付いた彼からは相変わらず返答はない。
雛姫が去って、二人きりになった室内には、先程から痛いくらいに静けさが漂っている。
暫く距離を置いて眺めていたが、やがて一歩を踏み出し、浴室へと足を踏み入れる。
「派手にやられたな……。お前にしては珍しい」
傍らにて立ち、血塗れの腕を見つめながら、素直な感想を述べつつも彼の様子を窺う。
雛姫は咄嗟に、客であった男の犯行を疑っていたが、それはきっと有り得ないだろう。
必死に逃げ延びようとする姿を見ただけだが、漸に傷一つ付けられるとは到底思えない。
寧ろ漸に痛め付けられる事を心配していたくらいなのだから、ますます今の状況とは結び付かなかった。
「なあ……、何があった。あの客がやったとは思えねえ」
「アイツなら逃げた」
「え?」
「気付いたら居なくなってた」
「そうか……」
ようやく口を開くも、機械のように淡々としていて覇気がない。
不真面目な男ではあるが、自分から標的を逃がしたとは考えにくく、何よりも怪我をした理由が明かされていない。
先程から流れたままになっていた水を止めれば、辺りにはより一層の静けさが漂い、突き刺さるような沈黙が拒絶されているように感じる。
「アイツがやったんじゃねえよな?」
「ちがう」
「だよな……」
確信を込めて尋ねれば、予想通りの答えが返ってくる。
それならば一体、誰が彼をこんな目に遭わせたのだろう。
思い当たる人物など思い浮かばず、通りすがりのような者にここまで漸が苦戦を強いられるだろうか。
考えても分からず、謎ばかりが深まっていき、全ては彼の中にしか答えがない。
けれども漸は、人が変わったかのように寡黙を貫いており、不穏な空気を湛えて佇んでいる。
聞きたい事は山ほどあるが、口を開かせるのは容易でなく、気が急くような時間が流れていく。
「痛むか……? それ」
触れようとした手を止めて声を掛けるも、漸からは特に応答がない。
「今、雛姫が手当てするもん探しに行ってる。その服はもう、ダメそうだな……」
肘から切り裂かれた衣服は、雨と血によって色濃く染まり、重く纏わり付くように身体へと貼り付いている。
視線を向ければ、濡れた髪も乱れており、普段の彼からは想像もつかない程に雑然としている。
「そのまんまじゃ風邪引くな……」
しげしげと見つめてから備え付けのタオルを引っ掴むと、頭に被せて水を滴らせる髪を拭き取っていく。
「ハァ……? 何やってんの、お前」
「このまんまにしておけねえだろ」
「ほっとけよ」
「ほっといたらお前何もしねえだろ。そんな身体強そうに見えねえし、お前」
「線が細いって言ってくれる……? がさつなお前と一緒にすんなよ。そりゃお前は風邪なんて引いた事ねえだろうけど」
「決めつけてんじゃねえよ。俺だって風邪くらい引くわ」
口数が少なかった漸から少しずつ言葉が溢れ、先程に比べれば幾分か空気が和らいだように感じる。
俯いていた顔を上げ、無造作に乱れた髪が視界を阻んでも、彼の整った顔立ちは変わらない。
雨に濡れた事で、漸が纏う甘やかな匂いを色濃く感じ、髪を拭く行為だけでも鼻腔をくすぐってくる。
「何があったんだよ。らしくねえぞ」
「らしくねえって、何……? お前は俺の事どれだけ知ってんの?」
「それは……」
予想外の返答に言葉を失い、そういえば何も知らない事を突き付けられる。
知りたくもなかったはずなのだが、諦めにも感じられるような言葉を受け、どうしてそのように考えてしまうのだろうかと自分に戸惑う。
「お前に行かせれば良かった。肉体労働は真宮ちゃんのほうが適任でしょ」
「何か引っ掛かんな、その言葉。バカにしてんだろ」
「あ、分かる? 少しは賢くなったじゃん」
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