405 / 406

ひとひらの羽根は血に塗れ 12

ふらりと壁に手を付き、出鱈目に行き交う人波と、騒々しい談笑に意識を掻き乱される。 視界が揺らいで、冷や汗が滲み出て、たった一歩を踏み出す事さえも困難になる。 急激に吐き気が込み上げ、咄嗟に手で口元を押さえ、青ざめた顔で力なく壁に寄り掛かると、暫くしてから視線に気が付く。 「おい……」 声を掛けられて間もなく、その場に力なく座り込もうとしたところで、いつの間にか身体を支えられていた。 「ダメそうだな」 顔を覗き込み、不穏な状況を察したらしい真宮が、此の身を抱えながら元居た場所へと引き込んでいく。 力ずくで引き上げられた身体は、長椅子の座面へと横たわり、ひんやりとした硬い質感が心地良く感じる。 立っているよりは楽なようで、仰向けになった身体からは徐々に力が抜け、密やかに呼吸を繰り返しながら目を瞑る。 何が心身に多大な影響を与えているのかは一目瞭然であったが、それを素直には受け入れられなかった。 未だに遠き日のトラウマを引き摺っているなんて、到底認められなかった。 「未使用だったから安心しろ」 脳内のざわめきを消せずにいると、急に冷えた感触が頬に当たり、目を開けると静かに声を掛けられる。 そうして手拭きが顔に触れている事に気が付き、冷や汗を掻いていた肌を丁寧に拭われていく。 「まあ、さっきよりは顔色いいか」 頭上から声を掛けられ、顔色を窺われながら触れていた手に、そっと指を添わせる。 驚いたように動きを止められても構わず、手の甲に掌を重ねながら横向きになっていく。 大切な人形でも抱くかのように両手で捕まえると、彼の掌から手拭きが零れ落ちる。 だが、そんな事はどうでも良く、体温を感じているだけで心が落ち着いていく気がした。 近付いてはいけない、逃れなくてはいけないと思っているのに、彼の存在が自分に平穏をもたらす。 矛盾していると分かっていても、目前の安寧を容易には手放せられなかった。 「おい、漸」 名を呼ばれるも、聞こえない振りをして瞳を閉じれば、頭上から微かに溜息が聞こえる。 それでも無理矢理に引き剥がす事はなく、利き手を捕らわれて不自由に晒されながらも、傍らで大人しく座している気配が伝わる。 「帰れば」 「あ?」 「簡単に抜け出せるだろ」 「可愛くねえよな、お前って」 すり抜けようと思えば簡単に逃げられる事くらい、彼になら分かっているだろう。 だが、未だに大人しく手を抱き締められ、不満げな溜息を吐きながらも好きにさせている。 それが優しさからか、哀れみからもたらされているものなのかは分からない。 今はどちらでも良い気がして、正直に言えば考える事に疲れていた。 あんなにうるさくて、耳障りであった騒々しさも、今では不思議と気にならない。 それは彼にフードを被せられたからなのか、薄暗くなった視界と共に喧噪が遠のいていくように感じる。 今度こそ安心して眠れるような気がして、自分はこうなる事を望んでいたのだろうか。 考えては放置して、繰り返すうちに辺りは些末な感情で溢れ、幼い子供の足跡のように点々と迷いながら続いている。 「あんまり長居する気はねえぞ」 ぶっきらぼうに言葉を紡がれるも、きっと彼は最後まで隣に居るのだろう。 相反する気持ちに掻き乱され、次に会う時はまた異なる感情に突き動かされている。 焦りか、苛立ちか、危機感か、今夜の出来事を塗り潰すようにこの男を恐れる。 それが予想出来ていても、今だけは全てがどうでもよく思えて、諦めるように力強い存在を感じながら意識を徐々に手放していく。 「余計なこと考えずに暫く寝てろ」 くしゃりと頭を撫でられて、青年の台詞に矛盾してんなと朧気に笑みが零れたところで、いつの間にか意識が途切れる。 そんな自分をどのような表情で見つめていたのかは、今更知る由もなかった。

ともだちにシェアしよう!