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麝香

「何をしてる」 我に返り、肩を震わす。 「黒瀧(くろたき)さん……」 視線を向ければ、今や見慣れた男が立っており、此方をじっと見つめている。 「あ、その……今日は」 「薊さんなら居ない」 「そう、ですか……」 言葉を濁し、間を繋げようと口を開けど、答えを突き付けられて途絶する。 薊さん、居ないのか。 愛想笑いを浮かべ、当たり障りのない台詞を紡ぎながらも、片隅では落胆するような声が零れる。 あんな事を言われたのに、強いられているというのに、それでもどうしてか吸い寄せられるように近付き、いつしか辿り着いてしまう。 他に居場所なんて無いから、今更もう後には戻れないから。 あの人が居ないと俺は……、本当に、どうしようもなくて……。 「あの人に何か用か」 「いや……、用って程では……」 「兄貴を殺す決心がついたか?」 「……それは」 何も言えなくなり、視線を泳がせて立ち尽くす。 決心なんて、そんなこと到底出来るはずもない。 そもそも兄を殺すなんて、何の意味も無いからだ。 様々な想いが去来するも、発する事は出来ずに眉根を寄せ、途方に暮れて拳を握るも救いの手はない。 「おかしな奴だな。兄貴が殺されるかもしれねえってのにのこのこ現れて、乗り気かと思えば暗い顔しやがって辛気臭ェ」 「すみません……」 「で? 何しに来た」 「や、その……、ホントに用とかじゃなくて……」 月のない夜、分厚い雲に覆われた後ろ暗い空の下、遠慮がちに男を見つめる。 黒瀧さん、と呼び掛ければ大柄な青年が、威圧的な眼差しを向けてくる。 額に傷があり、よく薊の側に居り、兄殺しの案も一緒に聞いていた。 精悍な顔立ちに、短く刈り上げた黒髪は大層似合っており、腕も立つであろう肉体は引き締まり、胸板は厚く逞しい体つきをしている。 「何だ、はっきりしねえ奴だな」 「薊さんは……、本当に……」 「やると言ったらやる。あの人はそういう人だ」 本当に殺すのか、どうして殺すんだ……? そもそも何でそういう話になったんだっけ、と思考が戸惑いに駆られ、額には脂汗が滲んでいく。 止めに来たわけでもないくせに、薊に会いたかっただけのくせに、と心中にて責めるような声を押し殺し、どうしていいのか分からなくて混迷を極めている。 雑居ビルを前に、以前彼等に痛め付けられていた輩が頭を過り、どうなってしまったのだろうかと考える。 そんな場合ではないのに、少しでも逃避したい気持ちからか、的外れな事を頭の片隅にて思い浮かべてしまう。 「芦谷 咲か。お前よりよっぽど名の知れた奴だったらしいな」 「え……?」 「調べさせてもらった。ああ、別にあの人に求められたからじゃない。単なる興味本位だ、俺のな」 突っ立っていると、不意に忌まわしき名を紡がれ、続く言葉に首を傾げる。 そういえば俺は、兄貴の事も何にも知らない。 急に切なくなって、傷付いた表情を浮かべている自分には気付けず、黒瀧と視線を交わらせている。 「今は足を洗ってるのか?」 「さあ……」 「まあいい。どちらにしてもだ、族潰しなんて異名を持つくらいだ。相当怖がられただろうな」 「兄貴が……? まさか」 その名を聞いた事くらいはある、けれどもそれが兄だとは到底思えず、困惑しながら黒瀧と相対する。 「会わせたらきっと、兄貴を気に入るだろうな。あの人は美しくて、そして強い奴が好みだ。申し分ねえだろ?」 「やめて下さい……」 「お前が奪われたくねえのはどっちだ?」 「そんな事……、アンタには関係ないだろ」 牙を剥いてからハッとするも、黒瀧は口角をつり上げて皮肉に笑い、気にも留めていないようである。 「相当恨まれてるだろうな。名を上げる為に狙う奴もごまんといるだろう」 「何が言いたいんすか……」 人気が無く、交通量も少ない路地では街灯が、申し訳程度に辺りを照らす。 ぼんやりとした灯りに、嘲るような笑みを湛えた青年が浮かび、鼓動が先程からうるさく脈打つ。 「いつ殺されてもおかしくねえ理由は整ってるわけだ。やりやすいだろ? お前も」 問い掛けられるも、即座に反応出来るわけもなく、唇を開くも言葉を失う。 いつも、俺の前にいる。 子供の頃からずっと、アイツは常に先を歩いていく。 側に居られれば、後を付いていければそれで良かった、そう思っていた。 そうしていつしか、俺の行く手を阻むんだ。 ちっぽけな存在であると俺を押し潰して、何もかもを取り上げていくのか。 「尻尾を巻いて逃げてもいいぞ? 誰もお前を信用しちゃいねえからな」 「俺は……、裏切ったりなんかしません」 「そうか? お兄ちゃんが恋しいって顔に書いてあるぜ?」 「違う……」 「それなら一つ頼まれてくれよ」 「え……?」 「滞りなく事を済ませればお前を信用してやる」 意図が見えず、返答に窮するも黒瀧は意に介さず、うっすらと笑みを湛える。 当惑し、顔色を窺うも、男は何にも言わずに佇んで、謎だけを残していく。 そこへ、何処からともなく一筋の光が照らし、一台の車が近付いてくる。 気にも留めていなかったが、やがて目の前で停車し、運転席から何者かが降りてくる。 「タイミングいいな」 「何だ? 取り込み中か」 「いや、丁度話がついたところだ。今日はコイツも一緒に連れていけ」 視線を寄越されるも、すぐに黒瀧へと向き直り、正気かと捲し立てている。 「仕事にならねえ。お守りなんてごめんだ」 「大丈夫だ。大人しくしてるだろうさ」 「信用出来ねえ」 「だからこそだ。下手を打ったら始末しろ」 鈍色のワンボックスが横付けされ、よくよく見れば助手席にも人が居り、此方になど目もくれずに窓の外を眺めている。 運転席の男といえば、先程から黒瀧と何事か言い合っており、気にはなっても内容は聞こえてこない。 「アイツはあの人の……」 「いい、俺が責任をとる。使えねえようなら殺せ。でも……、良く出来たらご褒美だ」 「……どうなっても知らねえぞ」 「ああ、どうなるかな。わくわくするな」 笑みを湛えて佇み、もう一方は苦虫を噛み潰したような顔で振り返り、つかつかと無言で近付いてくる。

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