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麝香

後方では、黒瀧が腕を組みながら佇み、去り行く後ろ姿を見つめている。 夜陰に紛れるも、とうに笑みは消え失せており、不興そうな表情が窺える。 見送られた人間は、剣呑とした雰囲気を湛えつつ、ずかずかと近付いてくる。 立ち尽くしたまま視線を逸らせず、得も言われぬ緊張感が駆け抜けていき、自然と顔が強張ってしまう。 「あの……」 やがて、眼前にて足を止めた男に見つめられ、眼光の鋭さに冷や汗が滲む。 蛇に睨まれた蛙で、頭の天辺から足の爪先まで視線が這いずり、値踏みされているようで居心地が悪い。 沈黙に耐え兼ね、おずおずと口を開けど返答はなく、居たたまれなさについ目が泳ぐも、どうする事も出来なくて困惑していく。 なんなんだ……、一体……。 薄気味悪い黙秘に、眉根を寄せながら胸裏で呟けど、事態は一向に進まない。 再度視線を注げば、口元と顎に髭を蓄えた男が映り、相変わらず飽きもせずに睨め付けている。 両の側頭部を刈り上げ、前髪もろとも後ろへと流された毛束は一つに結われ、額は露わになっている。 背丈は然程変わらず、けれども体つきは相手方が些か逞しく思え、いかにも重たい打撃を喰らわせそうな威圧感を帯びていた。 「……名前は?」 所在無げに口を噤んでいると、ようやく聞こえてきた声にハッと顔を上げ、真正面から向き合う。 眉間に皺を寄せ、見るからに不機嫌そうな様相だが、声音は落ち着いている。 「……來」 「歳は」 「19」 「ふうん……、そうか。あの人も物好きだな」 あの人、とはきっと薊の事であろうかと、淡々とした会話に身を任せながら過らせていく。 「……アンタは」 「あ?」 「名前……。なんて呼んだらいいか、分かんないし……」 遠慮がちに尋ねれば、威嚇するように睨め付けられて一瞬怯むも、譲らずに押し通す。 「ちっ……、由布(ゆふ)」 視線を逸らしながら舌打ちするも、渋々明かされた名を脳裏へと刻み付け、由布という男を見つめる。 「これから……、何かあるんすか」 「乗れ」 「え?」 ワンボックスは未だ、出発を待って鼓動を唸らせており、黒瀧と何事か打合せしている様子であった。 何かあるであろう事は明白で、素直な疑問を投げ掛ければ間髪入れずに顎で指し示され、状況が呑み込めずに言葉が途切れる。 「乗れと言ってる」 「俺も……、ですか?」 「ぐずぐずするんじゃねえよ、早くしろ。後がつかえてんだよ」 吐き捨てるように促されるも、とどまっている鈍色の自家用車を見つめ、動揺を隠しきれない。 どうやら黒瀧からの頼まれ事とは、目前にて佇む男が鍵を握っているようであり、ついていく以外に選択肢などないのであろう。 奥を見遣れば、先程から腕組みをしている黒瀧が突っ立ったまま、事の行く末を静かに見つめている。 「何を……、すれば」 頼り無げに、自信が無さそうな顔をしてしまえば、いきなり胸倉を掴まれる。 「何もしなくていい。いいか……? 余計なことはするな。詮索もするな、お前は黙って座っていろ。分かったな……?」 鬼気迫る表情で、首が絞まる程に衣服を握り締められ、息苦しくなる。 目の前で、由布が苛立ちを露わにしながら睨み付け、密やかに、けれども低く怒気を孕んで言葉を紡ぐ。 「わ……、分かりました……」 呑み込む他なく、余計な波風は立たせたくない為に、由布を見つめながら何とか承諾を口にする。 程無くして拘束を解かれ、乱暴に手離されて乱れた衣服を直せば、由布が黒瀧へと視線を注ぐ。 「気を付けてな」 ふ、と微かな笑みを浮かべて見送られるも、由布はまたしても舌打ちをする。 「どうなっても知らねえからな」 そうして忌々しげに吐き捨て、一目散に運転席へと近付き、ガチャリと音を立ててドアが開いていく。 それを見て、黒瀧へと視線を注いで躊躇いがちに軽く頭を下げてから、回り込んで後部座席に向かう。 全く納得出来てはいないが、他に道もない為に黙って乗り込み、閉ざされる音によって退路も絶たれる。 「遅かったな」 とりあえずは、一列目の座席へと腰掛ければ会話が聞こえ、助手席にずっと座っていた男だと分かる。 「めんどくせぇ事になった」 「ああ……、そいつ?」 言いながら顔を覗かせ、暗がりで視線が絡む。 「薊さんからなら仕方ないんじゃねえ?」 「黒瀧の独断だ……」 「は? なんで」 「知るかよ……。何を企んでやがる、あの野郎」 「ハァ……、なるほど? で、お前はなんであそこに居たんだ?」 聞き耳を立て、俺だってわけ分かんねえよと多少ムッとしていると、急に話を振られて我に返る。 見れば助手席の男が身を捩り、顔を覗かせている。 「別に……、何もないんすけど」 「何もねえってことはねえだろ? 黒瀧に呼ばれたとか?」 「違います」 「じゃあ、薊さん?」 「違う……」 「何だよ、はっきりしねえ奴だな。お前、ああ名前なんだっけ……、來?」 由布に言われて名を察し、語り掛けられるも特に何にも返さず、頭の中では様々に言葉が飛び交っていく。 めんどくせえのは俺のほうだ……、こんなわけも分かんねえまま同行しろなんて……。 窓の外を眺めれば、目まぐるしく景色が移り変わり、ヘッドライトが絶え間なく行き交っている。 説明くらいしてくれてもいいのに、じゃねえと分かんねえだろ……。 黒瀧を思い浮かべ、少々恨めしく思いながら眉間に皺を寄せ、こんなはずではなかったと溜め息をつく。 薊さんは居ない、何処で何やってるんだろう。 こつん、と黒塗りの車窓へ額を当て、薄暗い世界を何とはなしに見つめる。 「おい、聞いてんのか? いいか? 余計なことしやがったら……」 「しませんよ。アンタらの言うこと聞きますって」 外界を見つめながら、繰り返される言葉につい苛立ってぶっきらぼうになり、一瞥もくれずに返答する。 「テメッ、何だその態度……」 「二井谷(にいたに)。放っておけ」 不躾な振る舞いに語気を荒くするも、すぐにも運転席から待ったが入り、ぶつくさ言いながらも渋々前を向いて静かになる。 二井谷、と反芻させて名を覚え、それでもずっと外を見つめて物思いに耽っていく。

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