297 / 347
麝香
薊、幾度となく紡いできた名が、脳裏を過る。
蜂蜜色の髪は美しく、ふんわりと煌めきながら曲線を帯び、肩へと触れそうなくらいに伸ばされている。
純白のスーツを纏い、シャツとネクタイは対照的な色合いであり、一方の手首に腕輪が嵌められていた。
触れれば冷たく、気が付いたらしい薊が微笑んで、一つ一つを指し示しながら石の名を教えてくれていたが、馴染みがなく今となってはよく覚えていない。
それでも一種類だけ、紺碧の海のように深みを湛えた玉石は、ラピスラズリであると話してくれた。
艶やかで、それでいて美しく輝き、すべらかな感触をずっと指先で楽しんでいると、彼は顔を覗きながら気に入ったかなと笑う。
誕生石なんだよ、と語りつつ手を取り、悪さをしていた指へと指を絡ませ、静かに話を聞かせてくれた。
薊の声は、すんなりと耳に残り、側で語られるだけで自然と心が落ち着く。
俺にも石があるんですか、と問えば柔らかく笑んで、誕生日を聞かれて答えれば教えてくれるも、それは何という名であったろう。
年齢も、故郷も、生業すらも不明で、薊が本名であるかも分からない。
踏み込もうとすれば居なくなってしまいそうで、やっと手にした居場所を奪われたくなくて、彼へと宛がった理想を壊されることを恐れて、ずっと何にも聞けなかった。
結局は、覚悟が足りなくて逃げ道を残していた。
思い描いているような人ではない、そう薄々感付いてはいながらも本人から語られたくはなくて、顔を背けて蓋をする。
切り出さなければ、相手は何にも言わない。
問い掛けたところで真実を明かされるわけもないのに、薊と寄り添って他愛ない話をすることが何よりの癒しとなり、それだけで、その一時だけで良かった。
美しく聡明で、気に病めばいつでも声を掛け、彼は欲しい言葉をくれた。
もっと……、一緒に居たい。離れるなんていやだ。
外界を見つめながら焦がれ、尚も触れられない薊を思い返し、揺れ動く心は酷く頼りなく脆い。
もう戻れないのなら、変われもしないのなら、このまま深みへと真っ逆さまに堕ちようか。
等間隔に過ぎ行く街灯が、ぼんやりと辺りを照らしながら佇み、世の営みを静やかに傍観している。
我に返れば視線を向け、注意深く周囲を見つめて情報を拾い、何処を走っているのか知ろうとする。
「そろそろ時間だな」
「今日に限って直帰とかしてませんように」
商業施設と一体になった駅が見え、夜の帳が落ちていようとも未だ賑やかな周辺は混み合い、行き交う車も通行人も一気に増える。
バスが駆け、タクシーが群れをなし、様々な自家用車やバイクが入り乱れて混雑し、歩道では老若男女が忙しなく歩を進めている。
幾つもの商業ビルが天を貫き、宿泊施設も軒を連ねれば活気で満ち、分かりやすい目印ばかりで現在地をようやく察する。
それでいて耳を傾ければ、由布と二井谷の会話が鼓膜へと滑り込み、どうやら誰かと会うようだ。
「誰か来るんですか」
声を掛ければ二井谷が振り向き、にんまりと笑む。
街の灯により、先程より見目が浮き彫りになり、はっきりと顔が映り込む。
「今日のターゲット。そろそろお仕事終わるんじゃねえかな?」
「ターゲット……?」
不穏な呼称に戸惑うも、二井谷は楽しげに笑うばかりであり、彼等に抱えていた印象が変わっていく。
接する機会もなかっただけに、薊と知り合ってから間もなく凄惨な場に連れられ、すっかり血も涙もない印象が根付いていた。
しかし意外にも感情はあるようで、それが当然だけれども不思議でならず、二井谷をまじまじと見つめてしまう。
彼だから、ということなのであろうし、由布は相変わらず凄みを湛えて鎮座しており、非情そうな気風は変わっていない。
「人から恨みを買うと大変だぜ? 怨嗟が深けりゃ深いほど、なり振り構わず自分を泥沼に浸からせてでも相手を潰したい。願いではなく確実に、約束された制裁を」
妖しく笑む男に、凄みに圧されて生唾を飲み込めば、二井谷が満足そうにじっと見つめている。
黒髪は長く、前髪と一体になって無造作に伸ばされており、左右に分けられているので額まで顔立ちがはっきりと窺える。
顎に髭を蓄えて笑い、どうやら話好きらしい男は口を開いてばかりであり、色々とヒントをくれている。
傍らから咎められるも、いいじゃねえかよと開き直っている様子は演技なのだろうかと勘繰るも、二井谷はいざなうように口走る。
「お前も人に恨まれるような人生送っちゃダメだぜ? 清く正しくな? て、まあもう……、おせえかもしんねえけどな?」
何気ない言葉だが、不意に兄や家族が過り、針で刺されるように胸が痛む。
どうして今なんだ、俺は何にも気にしてない。
言い訳がましく胸中で訴えるも、悲しげな瞳を向けていた兄が離れず、目蓋を下ろして追いやる。
今更やめてくれ、もう俺の邪魔をしないでくれ。
願えども何度でも、繋ぎ止めるように言葉が、表情が、感触が思い起こされて消えず、その度に気持ちが揺らいで不安定になる。
「つまり……、仇討ちでもするんすか?」
苛むあまりに頭痛がして、脂汗を滲ませながら二井谷へ吐露すれば、彼は笑い声を上げて手を叩く。
「鋭いなあ、褒めてやる」
「何処かと揉めたんすか? まさかヴェルフェとか……」
「何言ってんだ? そんな金にならねえようなことするかよ」
「じゃあ、誰なんですか? 一体誰に……」
代わりに仇討ちするのかと悩めば、信号に捕まりながら走っていた車が混雑を抜け、オフィスビルが立ち並ぶ大通りを駆ける。
そうして路肩へと緩やかに滑り込んで停め、辺りを窺いながら誰かを待つような仕草に疑問が芽生える。
「此処……、知り合いなんかいるんですか?」
「いるわけねえだろ? そもそも土地勘もねえようなとこだっつの」
「このあたりにいるのなんてリーマンばっかっすよ? そこだって幾つも会社が入ってて……」
「いいんだよ。だってそのリーマンをぶっ飛ばしてほしいって依頼されてんだから。中間管理職のおっさん、何処にでもいるような感じだな」
「え……?」
信じられないような台詞に息を呑み、暫し固まる。
ともだちにシェアしよう!