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袋小路の愛8
「ああ。電話で予約しておいたんだ。そろそろ見えてくるぞ。……お、あれだ」
薫がそう言って海岸脇に建つ旅館を指差すと、樹は身を乗り出して窓の外を見つめた。
すぐ側の駐車溜りに車を停める。
「老舗の温泉旅館だ。今日は2人で露天風呂だぞ」
樹がくるっとこちらを振り返る。
その表情は、予想通り、喜んではいなかった。
眉をぎゅっと寄せて、怖いくらい綺麗な顔で睨みつけてくる。薫は思わず身を引いて首を竦めた。
「にいさんっ」
「はい」
「あんな、すごい高いとこ、どーして?」
「いや、樹、臨時収入がな」
「臨時収入は、ちゃんと貯金しなきゃ、だめ」
「うん、分かってるよ。でもな、樹、」
樹は鬼のような形相で……と言ってもやはり綺麗な顔だが
「でも、じゃないっ。にいさん、無駄遣いしすぎっ」
薫はたじたじとなりながらも、必死に食い下がった。
「今日だけだ!もうこんな贅沢はしない。おまえと一緒にちょっとだけ豪華な一日を過ごしたいんだよ」
「……今日……だけ?」
樹がちょっと眉のシワをゆるめる。薫はここぞとばかりに説得を試みた。
「これからにいさん、卒業と就活でもっと忙しくなるからな。一応内定はもらってるけど、こうやって遊んだりしてる暇はなくなると思うんだ。だから今日だけだ。もちろん、就職したらもっとあちこち連れてってやるぞ。なあ、樹。今日だけだ」
樹はじっとこちらを見つめながら、だんだん眉尻をさげていく。しばらく、無言が続いた。
「本当に、今日だけ?」
「ああ。約束する。ずっと勉強もバイトも頑張ってきたんだぞ。今日ぐらいいいだろう?」
薫はわざとしょぼくれた顔になって、樹をちろ……っと見つめた。樹は一瞬きょとんとしてから、笑いを堪えて怒るという複雑な表情になり
「……もう……にいさん、ズルい。そういう顔するの」
態度が軟化した樹に、薫は内心ほっとして、でも神妙な顔をしてみせた。
「ダメか?樹。にいさんと露天風呂、入りたくないか?」
樹は、うー……っと唸って目を逸らすと
「その言い方も、ズルい。にいさんの、バカ」
「怒るなよ、樹」
樹は、はぁ……っと大きなため息をつくと
「今日だけ。明日からは節約」
ようやくお許しが出た。薫は満面の笑みで腕を伸ばすと、樹の頭を撫でた。
「分かったよ、樹母さん」
樹はうっとおしそうに頭の上の薫の手をペシっと叩いて
「にいさんの、バカ。頭触るなっ」
「ごめんごめん。でもありがとうな」
薫がそう言ってにこっと笑うと、樹は眩しそうにぱちぱちと瞬きをして、ぷいっとそっぽを向いた。
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