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君のことが好きだから2

「よし。じゃあ行くぞ」 薫の言葉に樹は無言で頷き、後に続いた。 玄関で靴を履き、ドアを開けて待っている薫を見上げてから、後ろを振り返った。 「どうした?なにか忘れ物か?」 「ううん」 樹は義兄の部屋をゆっくりと見回してから、唇だけ動かして「さよなら」と告げた。 幸せな時間の記憶がたくさん詰まった場所だった。 もう二度とここには戻れないけれど。 薫の愛車に乗り込むと、樹は窓の外のアパートに、心の中でもう一度お別れをした。 「来たか。まあ入れ」 玄関ドアを開けたのは、叔父の巧だった。 薫の後ろで、樹は強ばる顔をそっと俯かせた。 昨夜遅くに寝室を抜け出して、薫には内緒で月城に電話をかけた。月城はすぐに出たが、なんだかすごく嗄れた声だった。 樹が戻ると告げると、長い長い沈黙の後で「そうか。君がそう決めたのなら、仕方ないね」と囁くように答えた。今日は叔父のマンションで一緒に自分たちと会うと言っていたのだ。 「よくもまあ、ノコノコと顔を出せたものだな」 リビングに入り、叔父の指し示す応接セットのソファーに並んで腰をおろすと、巧は早速、皮肉めいた言葉を投げつけてきた。 それまで無言だった薫が口を開く。 「お叱りは覚悟の上です。今日は叔父さんにお願いがあって来ました」 感情を抑えた抑揚のない薫の声。 樹は胸がズキズキしてきて、俯いたままそっと胸元を手で押さえた。 「ふん。お願い……ね。勝手気ままに樹を連れ出して行って、今後はお願い事か。おまえ、自分が何をやっているのかわかっているのか?」 叔父の声は嘲笑混じりだ。樹はちらっと顔をあげて薫の横顔を見た。薫は能面のような無表情だ。恐る恐る、今度は叔父の顔を見る。目が合った叔父は、ひどく嫌な目して、口元を歪めて笑った。 ……言わなくちゃ。にいさんが余計なこと言う前に、僕が。 「勝手なことをして、すみませんでした」 薫は叔父の嫌味にも感情を見せず、潔く謝って深々と頭をさげた。樹はそれを見つめてぎゅっと拳を握り締めた。 ……にいさんに、こんなこと、させたくない。させちゃ、いけない。言わなくちゃ。早く。 分かっていても、なかなか口を開けない。 覚悟は決めていたはずなのに、叔父の顔を見て心が竦む。本当は叔父の所になんか行きたくない。義兄とずっと一緒にいたい。 「ふん。おまえのそれが本心とは思えんな。俺に何かしてもらいたいから、口先だけで言ってるだけだろう?ん?」 勝ち誇ったような叔父の言葉に、樹は顔をあげて叔父を睨みつけた。 ……にいさんを、侮辱するなんて、許せない! 握り締めた拳がぶるぶると震える。 樹は大きく息を吸い込むと、意を決して口を開いた。 「叔父さん、」 隣の薫がハットしたようにこちらを見る。 樹は薫の方は見ずに、真っ直ぐに叔父を見つめて 「お願いが、あるのは、僕です」 「っ、樹?なに、言ってるんだ。おまえは何も言うなっ」 薫の手が伸びてきて肩を掴む。 それでも樹は、叔父だけを見ていた。

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