樹は叫んで薫の腕を振りほどいた。その拍子に、爪先が薫の頬をガリっと引っ掻き、傷をつけた。 「ぁ……」 樹は一瞬怯んで、薄く血の滲んだその頬を見つめた。薫も驚きに目を見開いている。 「樹……」 「っ、にいさんが、手、離してくれないからじゃん」 酷く傷ついたような薫の目を見ていられずに、樹はぷいっと顔を背けた。それでもまだ追いすがろうとする手を無理やり引き剥がして、腕の中から抜け出す。 「月城さんっ」 薫に背を向けて、叔父の隣にいる月城へと駆け寄った。小さく両手を広げる月城の胸に、そのまま飛び込んでいく。 「ごめんなさいっ。勝手に抜け出したりして」 ぽすんっと飛びついた樹を、月城は優しく抱きとめてくれた。樹は手を伸ばして、痛々しく腫れた頬をそっと撫でる。 「樹……っ」 自分の名を呼ぶ薫の悲痛な声が、耳に突き刺さった。 ……ごめんなさいっ。にいさん。ごめんなさい。 樹は目を潤ませて、それでも薫ではなく月城を見つめた。月城は酷く哀しげな目をしている。 「僕の、せい？この怪我、僕の、」 「違うよ。うっかりね、階段で足を踏み外したんだ。君のせいじゃない。それより樹くん、おかえり。思ったより……早かったね」 背中に痛いくらい薫の視線を感じながら、樹は月城の胸に甘えるように頬を擦り寄せた。 「にいさんとね、海の近くの旅館に泊まった。星空が綺麗で、露天風呂がすごく気持ちよかった」 「そうか…。楽しい思い出が出来て、よかったね」 樹は頷いて、月城の胸に顔をぎゅっと埋めた。 もう、薫の顔は見られない。 こんな酷いことをして、薫がどんな表情で自分を見ているのか、想像するだけで苦しい。 「無事に戻れてよかったな。あのバカものが血迷っておまえを遠くに連れて逃げるんじゃないかと、兄さんとも心配していたのだ」 叔父は苦笑混じりにそう言って 「薫。それで、俺にお願い事ってのは何だ？」 勝ち誇ったような叔父の問いかけに、答える声はない。樹は胸が苦しくなって、月城の腕を掴み締めた。 自分に裏切られて、義兄はきっと傷ついている。 でも、どうかこのまま何も言わずに、ここから去って欲しい。自分にも叔父にも、もうこれ以上関わらないで欲しい。自分の存在は義兄にとって、疫病神でしかないのだから。 「俺は言ったはずだぞ、薫。おまえはたぶらかされているだけだと。人の忠告をきかないから、こんな馬鹿げたことを仕出かすのだ」 叔父は溜め息混じりに言葉を続けた。 答える声は、ない。 ……にいさん。もう行って。これ以上、叔父さんの酷い言葉を聞かないで。 樹はぎゅっと目を瞑り、心の中で懇願していた。 ……もう充分だから。 もうこれ以上、にいさんを傷つけないで。 早く。早く帰って。にいさん。お願いっ。