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想いいづる時4

樹は、好奇心いっぱいの顔をして、店内を見回している。鼻をひくひくさせているのは、店内に漂ういい香りのせいだろう。 「お。なんだ。珍しいヤツが来たな」 店の奥から顔を出したのは、髭面のオーナーだった。薫の大学の先輩で、昨年、卒業後に、親がやっていた小さな食堂を改装して、この店をオープンさせた。冴香を連れて最後にここに来てから、もう3ヵ月ぐらい経っている。薫は苦笑いしながら頭を下げた。 「すいません。ご無沙汰してしまって」 先輩はくくっと楽しげに笑うと 「貧乏苦学生だからな、おまえ。まだここを忘れてなかったってことで、許してやるよ。ところで……」 牧先輩は、薫から隣の樹に視線を移して 「また随分と美人さんを連れてきたじゃないか。彼女……にしてはかなり年が離れてるだろう?」 先輩の言葉に薫は首を竦めた。年が離れてるのは間違いないが、性別が間違ってる。牧先輩の言葉で樹が拗ねるんじゃないかと、ちょっと焦ったが、樹は壁の方に見とれていて、今の会話は耳に入っていないらしい。 壁の造り付けの棚には、牧先輩ご自慢の手作りのコーヒーカップがずらっと並んでいる。牧先輩は実は陶芸の方が本業で、いかつい山男のような風貌に似ず、繊細で優しい作品の作り手だ。固定のファンがいて、工房では器や花器などが、結構高値で取り引きされているらしい。 「藤堂樹。弟ですよ、俺の」 薫の返事に牧先輩はあんぐりと口を開け、樹の顔をもう一度見直した。 「弟……。そうか、例の……」 小声で呟く先輩に、薫は微笑んで頷くと 「ちょっと前に、俺のアパートを訪ねて来てくれたんです。可愛いでしょう?自慢の弟ですよ」 牧先輩は薫の家庭の事情を知っている。薫の複雑な胸のうちも理解してくれているから、目を細めて薫の顔を見て 「そうか。自慢の弟なのか。……よかったな、薫」 「ええ。おかげさまで。今、すごく気持ちが落ち着いてます」 「そうみたいだな、おまえの顔を見れば分かるよ。よし。今日は俺の奢りだ。何でも好きなもの注文しろ」 牧先輩の太っ腹な言葉に、薫は苦笑して 「先輩、そんなことばっかり言ってるから、この店、採算取れないんじゃないですか」 牧先輩はおどけたように笑って 「こっちはあくまで俺の趣味だからな。そのうちおまえが有名なデザイナーになったら、出世払いさせてやるよ」 「いやいや、それって全然おごりじゃないですよね」 店の探索を終えた樹が、薫たちのやり取りを目を丸くして見ている。薫は樹を手招きすると 「樹。俺の大学の先輩の牧さんだ」 樹はおずおずと近づいてくると 「藤堂樹です。初めまして」 そう呟いて、ぺこっとお辞儀した。

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