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突然の君10

樹は反論しようと口を開きかけて、でもすぐに口を閉じ目を伏せた。薫はなるべく穏やかな声で 「なあ、樹。何か不満があるんだよな。言いたいことがあるなら、俺がいくらでも聞いてやる。だから、自分の心が真っ黒になるような、そんな呼び方は止めておけよ、な?」 薫の言葉に、樹は唇をぎゅっと噛み締めた。 親に不満を感じて、でも言いたいことを言えずに、心に黒い気持ちを抱えた経験ならば、薫にもある。今でもその気持ちを、完全に払拭しきれたとはいえない。樹がどんな問題を抱えているのかは分からないが、苦しいだろうな……と想像は出来る。 「……なんで?」 「え?」 「なんで、優しくすんの? あんた、俺のこと、嫌いだろ?」 「別に嫌いじゃないさ。おまえ、さっきもそう言ったけどな」 樹は納得いかない様子で顔を歪め 「だって。嫌いだから一緒に住まないんだろ? 俺たちといるの嫌だから、あんた、出てっちゃったんじゃないかっ」 薫は興奮気味の樹の手に、寝巻き代わりのTシャツと短パンを差し出した。 「そうじゃない。好きとか嫌いとか、それ以前に、俺はおまえのこと知らないだろう。あの時は母が死んで呆然としていた。俺にも、もう少し気持ちの整理をする為の時間が必要だったんだ。だが……」 樹の柔らかそうな癖っ毛の頭に、思わず手を伸ばした。 「俺の態度がおまえを傷つけていたのなら……ごめんな」 そう言って遠慮がちに頭を撫でると、樹はびくっとして身を引いた。薫の手からシャツと短パンをひったくるように取り 「っ俺、着替えてくるっ。歯ブラシ、どこ?」 「あ、ああ、洗面台の上の棚だ。新しいのがあるから、開けていいよ」 樹は服を抱えてくるっと薫に背を向けると、ばたばたと部屋を出て行った。 薫はちょっとぼんやりして、樹の出て行ったドアを見つめた。 (……バカだな、俺は。今までずっと無視してきたくせに、急に兄貴ぶって親しくしてみせたって、あいつも戸惑うだけだ。……でも、何となく放っておけない気がしたんだ) 洗面所に飛び込んだ後も、樹はしばらく胸がどきどきしていた。 義兄さんの優しい笑顔、穏やかな声、そして頭にそっと触れてくれた大きな手。 突然アパートに訪ねてきた自分を、こんな風に優しく迎えてくれるなんて、全然予想外だった。 樹が母親と一緒に初めてあの家を訪れた時から、義兄は自分のことをまともに見てくれたことがなかった。 一緒に暮らしていたのに、義兄に会えることなんかほとんどなかった。たまに家の中で出くわしても、ふいっと目を逸らし、そそくさと何処かに行ってしまう。 母から、再婚の話を聞いた時、最初はちょっと想像出来なかった。 物心ついた頃から、母親と2人きりの生活が当たり前だった樹に、お父さんとお兄ちゃんがいっぺんに出来る。不安な気持ちしか持てない樹に、母が話してくれた新しい家族のこと。 「あなたの新しいお兄ちゃんはね、8才年上の高校生で、背が高くてすごく格好良くて優しい人なのよ」 実際に会うまでの3ヵ月ぐらい、繰り返し繰り返し、母にそう聞かされて、写真も何回も見せられていたから、樹は義兄に会う日を、内心ものすごく楽しみにしていたんだ。 なのに……実際に会った義兄は、優しく自分を迎えてくれるどころか、あからさまに樹たち親子を避け続けた。 初めて出来る兄弟に、淡い憧れを抱いていた樹の心は、空気の抜けた風船みたいに萎んでしまった。 (……僕がもう少し、人見知りじゃなくて、ハキハキ話をしたり、元気に挨拶出来ていたら……義兄さんは僕のこと、気に入ってくれたのかな……) 樹は新しい家族に何とか上手く溶け込みたくて、義兄とも話をしてみたくて、一生懸命人見知りを治そうと努力してみた。苦手な友達付き合いも積極的に頑張った。 そして小学校卒業式の日。今日こそは、自分から義兄に話しかけてみよう。そう密かに決意していた樹は、家に帰って愕然とした。緊張しながら訪ねた義兄の部屋は、大きな家具以外は何もなくなっていた。 その日、義兄は一人暮らしをする為に、家を出て行ったのだ。

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