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迷い猫4
薫は樹と一緒に20分ほど歩いて、アパートに戻った。樹はひと言も喋らず、まるで借りてきた猫のように大人しかった。
部屋に入ると所在なげに佇んでいる樹に、ソファーに座るよう促して
「腹、減っただろう? たいしたもんはないけど、ちょっと待ってろな」
薫はそう言い置いて、台所に向かう。いったん腰をおろしかけた樹は、すぐに腰を浮かして
「俺、何か手伝うこと……ある?」
おずおずと聞いてきた。別にいいから座ってろと答えようとして、薫は思い直した。
「よし。じゃあ、ちょっと手を貸してくれるか? 昼飯兼用でカレーを作るんだ。樹、おまえ料理やったことは……」
薫の問いに樹は眉を寄せ
「……ない……」
「そうだよな。俺もあまり得意じゃないんだが……。材料揃ってて、このルーの箱に書いてある通りに作れば、まあ、何とかなるだろう」
樹は不安そうな顔で首を傾げたが、何も反論はせずに、薫の手からカレールーの箱を取り上げ、箱の裏のレシピを読み始めた。
「じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、肉……ある?」
「それは大丈夫だ。一応ぜんぶ揃えた。肉は近所のスーパーで、閉店ぎりぎりで半額になってた安い豚肉だけどな」
薫が材料をひと通り調理台の上に並べると、樹は玉ねぎを取り上げて
「これ、皮むくよね。俺がやる」
「うん。じゃあ、俺はじゃがいもの皮をむくか」
薫は引き出しからピーラーを取り出し、じゃがいもを水洗いしてから皮むきを始めた。樹は真剣な顔で玉ねぎの皮を引っぺがしている。
「これ、どこまでむくの」
「茶色っぽい薄いのを剥がしたらもういいぞ。おまえ、こっち、やれるか?」
樹は薫の顔を見てから、手元のじゃがいもに視線を落とし、薫がやっていることをしばらく見つめていたが
「……出来る。かして」
差し出す手に薫がじゃがいもとピーラーを渡してやると、覚束無い手つきでガリガリと皮をむき始めた。
薫はまな板に玉ねぎを置いて、包丁を取り出した。左手で玉ねぎを押さえて、半分に切ろうとすると、ガリガリという音が止まる。視線を感じて樹の方を見ると、樹は不機嫌そうに顔を顰めて
「料理……あんま自分でやんないの? あんた」
「やらなくはないよ。ただ、そんなに好きじゃないからな。バイトの帰りに、半額になってる惣菜とか買うことが多いかな」
「……ふうん……」
樹は鼻を鳴らすと、またじゃがいもをガリガリやり始める。薫は玉ねぎを半分にしてから、適当な大きさにザクザク切っていった。
「樹。あのな。その、あんたっていう呼び方、やめないか?」
玉ねぎが目に沁みる。薫が目をしばしばさせながらそう言うと、樹はむいたじゃがいもをボウルに入れて、次のを掴んでこっちを見た。
(……っ)
樹の大きな目は真っ赤で、涙が滲んでいる。驚いた顔をした薫を、樹は不審の眼差しで見上げて
「じゃ、なんて呼べばいいんだよ?」
「うーん……。そうだな。お兄ちゃん……かな?」
樹は真っ赤な目をしばしばさせて、ぐすっと鼻を啜り
「ちゃん、とか変じゃん」
「あ。だったら名前で呼ぶのはどうだ?」
「……薫……さん?」
「うん。それ、いいな」
薫はようやく切り終えた玉ねぎをざるに放り込み、手を洗ってから、ボックスティッシュを数枚掴んで、樹の顔を覗き込んだ。
「しみるんだろう、玉ねぎ」
そう言って樹の涙をそっと拭ってやると、樹は目をぱちぱちして、薫の顔をぼんやり見つめてから、はっとしたように目を逸らし
「……っ俺より自分の目、拭けよ。あんた……じゃなくて兄さん……も泣いてんじゃん」
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